そして愛は強く
湊の家は、いつも通り静寂に包まれていた。だが、今夜はその静けささえも、二人の間に流れる甘やかな空気の一部のように感じられた。
玄関で靴を脱ぐとき、凪はいつもより少しだけ湊の背中に密着していた。湊はそれを振りほどくこともせず、むしろ彼女の存在を確かめるように肩に手を添える。
「みーくん、今日のご飯、何にする? 私、お腹ペコペコだよ」
凪がキッチンでエプロンを手に取りながら、湊を振り返る。その無邪気な瞳に、湊は胸の奥が熱くなるのを感じた。つい先ほどまで、香織という少女の切実な想いと、自分自身の重たい過去に向き合っていたことが、まるで遠い夢物語のように思える。
「……何にする? 冷蔵庫にあるもので良ければ、何でも作るよ」
「んー、じゃあハンバーグ! みーくんの作るハンバーグ、世界一好きだから!」
「大げさだな。……わかった、作ろう」
湊はジャケットを脱ぎ、シャツの袖をまくった。キッチンに立つ湊の背中を、凪はすぐ後ろで眺めている。湊が野菜を切る軽快な音が響く。凪はそのリズムに合わせて、小さく鼻歌を歌い始めた。
「ねえ、みーくん」
「ん?」
「これからも、ずっと私のこと見ててね」
「……当たり前だろ。俺は凪のことが一番大切なんだから」
湊は包丁を止め、凪の方を向いた。凪は満面の笑みを浮かべ、湊の腰にぎゅっと抱きついた。
「嘘つかない?」
「嘘なんてつかない。……ずっと、一生かけて証明する」
「……ふふ、重たいなあ。でも、その重さが好き」
二人のやり取りは、まるで呼吸をするように自然だ。かつて他人を拒絶し、孤独をシェルターにしていた湊にとって、こうして凪が自分を求め、自分が凪のために料理をするという日常は、何物にも代えがたい「奇跡」だった。
ハンバーグが焼ける香ばしい匂いが部屋を満たす。食卓につき、二人は並んで座った。
「いただきます!」
凪が一口食べて、目を輝かせる。
「んんー! やっぱり最高! みーくん、お店開けるよ!」
「凪が満足してくれるなら、それでいい」
「ねえ、今日さ、先生との話で、将来のこと少し考えたんだ」
凪が急に真剣な面持ちになった。湊は箸を置き、彼女の言葉を待つ。
「私ね、みーくんとずっと一緒にいたいから。……将来も、今と同じように、みーくんの隣にいられる仕事がしたいな」
「んー、たとえば?」
「……みーくんのお嫁さん、じゃダメ?」
凪は赤くなりながらも、真っ直ぐに湊を見つめた。湊は思わず噴き出しそうになり、けれど愛おしさで胸がいっぱいになった。
「凪。……それは、俺が一番望んでいることだよ」
「本当?」
「ああ。俺は凪と一生を共にしたい。でもプロポーズはもう少し待ってほしいかな。一人前の男として、《《家族》》を支えられるようになるまで」
凪は嬉しそうに涙ぐみ、食卓越しに湊の手を握った。
「約束だよ。それまで待ってるから。……絶対、離れないでね」
「約束する。……あと今、少し話したいことあるんだけどいいか?」
「話? 何?」
「いや……今日は、凪が帰ってくる前に、少しだけ過去の整理をしていたんだ。……これからは、凪にも隠し事をしたくないと思って」
湊は、今日香織と話したこと、香織が湊に好意を持っていたこと、そして自分がどれだけ凪という存在に救われているかを、飾らずに伝えた。凪は黙って最後まで聞き入っていた。
「……そっか。香織さん、そんなに思いを持ってたんだね」
「ああ。俺のせいで、あの子は2年間も自分の中に閉じこもっていたのかもしれない。……俺は、凪を守るためなら何でもするつもりだった。でも、それ以外の誰かを傷つけていいわけじゃないんだと、今日痛感したよ」
凪は湊の手を握る力を強めた。
「みーくんは優しいよ。だから、そんなに自分を責めないで。私は、みーくんが私を大切にしてくれるだけで、十分すぎるくらい幸せだから」
「凪……」
「これからはさ、香織さんも含めて、みんなで仲良くしよう? 嫌な記憶は全部、私たちが新しい思い出で塗り替えちゃえばいいんだよ。私、みーくんの過去も全部含めて、丸ごと愛してるから」
凪のその強さと優しさに、湊は改めて惚れ直す。彼女はただ守られるだけの存在ではない。湊の弱ささえも受け止め、未来へ導いてくれる強さを持っている。
「……凪、甘えてもいいって言ったよな」
「うん。……ご飯のおかわりはいい?もうお腹いっぱいになった?」
「いや……お前のことが、足りない」
湊は立ち上がり、凪を抱き上げてリビングのソファへと運んだ。凪は身を委ね、小さく笑った。
「……みーくん、家だと大胆だね」
「……今日は、少しだけ甘えさせてくれ。俺の心臓が凪だけで満たされていることを、もっと確信したい」
「……いいよ。全部、みーくんにあげる……私だって、みーくんがいないとダメだもん」
部屋の明かりが少しだけ落とされる。湊は凪の髪を優しく撫で、その瞳を見つめた。
「凪、愛してる」
「私も。……誰よりも、何よりも、ずっとずっと愛してる」
「これからは何があっても、二人で乗り越えていこう」
二人は重なり合い、互いの鼓動だけが響く世界へと深く沈んでいく。そこには、もう誰も入り込めない。過去の痛みも、他人の想いも、すべては二人の愛の深さの中で、穏やかな静寂へと溶けていった。
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