放課後の熱
放課後の教室。カーテンが風に揺れ、夏が近づいて陽が伸びてきたせいかまだ暗くなるまで時間がある。この後二人で遊ぶ時間を十分確保できるだろう。湊と凪は二人で放課後の準備を整えていた。
「よし、終わったな。帰ろうか、凪」
「うん、帰ろ。……あ、待って、みーくん。私の教科書、まだ机の中だ」
凪が少しだけ慌てて自分のデスクを覗き込む。湊は凪の準備が終わるのを待つ間、自分のバッグを肩にかけ、凪の隣で静かに彼女の動きを目で追っていた。
「よいしょ、っと……。ふぅ、やっと終わったぁ。……ねえ、みーくん、今日、アイス屋さん行こう」
「いいな。その後買い物でもいくか。……凪、あまり急ぐなよ、転ぶぞ」
「楽しみだからね。 それに転びそうになったらみーくんが支えてくれるでしょ?」
凪が嬉しそうに湊の腕に抱きつく。教室にはまだポツポツと他の生徒も残っており、二人のその仲睦まじい様子を、チラチラと横目で見る者たちがいた。湊はそれには一切構わず、凪のバッグを持ってあげようと手を差し出す。
「貸せ。俺が持つ」
「えへへ、ありがとう。……優しいなぁ、みーくんは」
その時だった。湊たちのすぐ近くで、鞄を詰め終えた女子生徒が、勇気を振り絞るように声をかけてきた。
「あ、あの……湊くん? 明日って時間ある?」
「ん? ……何かあったか?」
湊は凪の腕を組んだまま、至極当然のように対応する。凪は一瞬だけ表情を強張らせたが、すぐに湊の隣で穏やかな「凪ちゃん」の顔を作る。
「その……昨日教えてもらった英語の長文、別の問題集でも似たようなのがあって。もしよかったら……」
「明日か……ああ、いいぞ。昼休みなら空いているから、それでいいなら」
「本当!? ありがとう、湊くん! じゃあ、明日またノート持っていくね!」
女子生徒は顔を輝かせて教室を出て行った。彼女には邪な意図などない。ただ、純粋に「勉強を教えてほしい」というだけの頼み事だ。湊にとっても、それはクラスで円滑に過ごすための「必要経費」に過ぎない。
教室が少し静かになる。凪は、湊の手を握りしめ、少しだけその指に力を込めた。
「……明日、昼休みも教えるんだね」
「ああ。……凪、嫌か?」
「嫌じゃないよ。……みーくんがみんなに頼りにされるの、嬉しいもん」
凪はそう言いながら、湊を見上げて小さく微笑んだ。心の中のざわめきを、彼女は懸命に飲み込む。湊が自分以外の誰かに優しくしている。その事実が、喉元まで何かを押し上げそうになるが、凪はそれを「愛」という名の膜で覆い隠した。
「そうか。……凪がそう言ってくれると助かる。俺一人じゃ、クラスの空気を読むのは難しくてな。こうやって普通に接することで、凪が変な噂を立てられるのを防げるしな」
「……うん。分かってるよ。みーくんは、私を守るために頑張ってくれてるんだよね」
凪は湊の腕に顔を埋め、彼の匂いを深く吸い込んだ。香水の匂いではない。湊自身の、少しだけ甘くて、どこか懐かしい匂い。
「……みーくん、私、もっと甘えてもいい?」
「……場所を考えろ。……と言いたいところだが」
「ふふ、冷たいこと言わないでよ」
二人は教室を出て、誰もいない静かな廊下を歩き始めた。放課後の校舎は、夕暮れに染まり、少しだけ影が長くなっている。
「ねえ、みーくん」
「なんだ?」
「さっきの女の子、すごく嬉しそうだったね」
「そうか? ……よく見てなかった」
「もう、……そういうところだよ、みーくんは」
凪は少しだけ拗ねたように唇を尖らせたが、その手は湊の腕を離さない。彼女にとって、湊が無関心であることは、何よりも甘美な報酬だ。
「……そんなことよりこの後どこいくか考えよう」
「あ、うん! そうだね! まずはアイスだね……ねえ、みーくんは何にする? どんな味にしようかな……」
「決められなければ二人で分け合えばいいだろ」
湊の言葉に、凪の顔がパッと華やぐ。
「……みーくん、大好き。……本当に、一生離さないからね」
「ああ。俺も、お前以外には何もいらない」
二人は校舎の出口を抜けた。校門へと続く並木道は、夕日に照らされて黄金色に輝いている。
「ねえ、みーくん。もし、私が嫉妬深くなって、みーくんをどこにも行かせたくなくなっちゃったら、どうする?」
「……まず俺は凪以外のところに行きたくないぞ」
湊の言葉は、まるで凪の独占欲を肯定するかのような、重く、甘い言葉だった。彼は自分の自由を凪という花に預けている。それは、彼にとって束縛ではなく、至高の幸福なのだ。
「……そんなこと言ったら、本当に私、みーくんを檻に入れちゃうよ?」
「……やってみればいい。……お前の檻なら、俺は進んで入るよ。それにそんなご褒美、檻じゃなくて豪邸だろう」
二人は顔を見合わせ、静かに笑った。
校門を出て、二人の影が並んで伸びる。通り過ぎる車、遠くで聞こえる帰宅部の声。その全てが、二人にとっては遠い世界の出来事のようだ。
「……ねえ、明日の昼休みもさ、私が一緒にいてもいい?」
「もちろん。……むしろ、一緒にいたい」
「ふふっ、今の言葉、録音しておけばよかった!」
凪は湊の袖を強く引いた。彼を自分の世界に閉じ込めておきたいという強烈な欲求と、彼が自分を一番に求めているという絶対的な信頼。その二つが、今の凪の中で完璧な調和を保っている。
「ねえ、みーくん。……今日たくさん甘えさせてね」
「ああ。……好きにしてくれ」
「今からでもいい?」
「……帰ってからにしてくれ」
「ふふ ……いいよ、それじゃあ、帰ったらたっぷり甘えさせてもらうんだからね!」
二人は他愛のない会話をしながら、街へと続く道を歩いていく。
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