視線
翌日の昼休み、教室の空気は昨日と変わらず賑やかな熱気に満ちていた。
湊の机の周囲には、相変わらず教科書を広げた女子生徒たちが小さな輪を作っている。「湊くん、この範囲のポイント、もう一度教えて!」「湊くんはさ、ここの解釈はどう思う?」と、彼女たちの声は軽やかで、憧れに彩られている。湊が何か特別なことをしたわけでもないのに、いつの間にか彼はクラスの「頼れる中心」として自然と浸透していた。
そんな賑わいの中で、教室の端、窓際の席に座る香織は、広げた本のページをめくることもなく、ただ一点を凝視していた。彼女にとって、その視線の先にある湊の背中は、中学時代からの長きにわたる執着そのものだった。
まだ誰も湊の存在を意識していなかった頃、静かな図書室でいつも同じ席に座っていた彼。放課後の誰もいない教室で、一人窓際で空を見上げていた横顔。あの中学時代、彼の背中を見つめ続け、ただ一度だけ目が合った瞬間の胸の高鳴りを、香織は今日まで一度たりとも忘れたことはなかった。
(……私だけが知っていたのに。あの日からずっと、あなたのことは私だけが見つけていたのに)
湊が凪の髪にふと触れ、凪が湊のシャツを掴んで甘える。その距離感を、香織は瞬きも忘れるほど熱を帯びた瞳で見つめている。今の湊は、中学時代のどこか孤独を纏った彼とは違う。多くの人に囲まれ、凪という最愛の存在に守られ、眩しいほどの光の中にいる。
香織の隣の席で、親友の「美咲」は、ふと本を閉じると、退屈そうに身体を捻った。彼女は香織が湊に向けた、飢えたような、あるいは狂おしいほどの情念に、ふと気づいてしまった。香織の肩がかすかに震え、呼吸が浅くなっていることに。
「……香織、あんたまた見てるの? ……中学のときからずっとだよね」
美咲は誰にも聞こえないほど小さな声で、容赦のない言葉を落とした。香織はびくりと肩を跳ねさせ、慌てて視線を本に戻した。
「な、なに? 美咲」
「とぼけないで。香織があの人のこと、図書室で隠れて見てた頃から好きだったの、私だけは知ってるよ。……でも、今の香織の目、ちょっと怖いよ」
美咲は冷ややかな、けれどどこか心配そうな視線を香織に向けた。香織の顔が、瞬く間に羞恥と動揺で真っ赤に染まっていく。
「違う……そんなんじゃないよ。ただ、なんとなく……」
「なんとなく、ねぇ。……香織、自分で気づいてないの?その目、湊くんのことを見てるときだけ、全然違うよ。まるで……」
「やめて、美咲! お願いだから、そんなこと言わないで」
香織は必死に声を潜めた。美咲は溜息をつき、教室の中央で甘い空気を撒き散らす湊と凪の姿を眺めた。
湊は、凪と繋いでいない方の手を机に置き、その手から伝わる温もりを意識しながら、周囲の生徒たちに変わらず丁寧に応対している。
「……ここの文法は、関係を見れば難しくない。ほら、ここを括弧で括ると分かりやすいだろ? 役割さえ押さえておけば、この構造はすぐに解けるはずだ」
「わあ、本当だ! すごーい、湊くんってやっぱり教えるの上手いね!」
女子の感嘆の声が響く。湊はその称賛を特段誇ることもせず、淡々と解説を続ける。その傍らで、凪は湊のシャツの袖を、まるで離さないと言わんばかりにぎゅっと掴んでいる。彼女の中で「嫉妬」という鋭い棘は、昨日の屋上での会話を経て、より深く、もっと温かい「彼を愛するがゆえの疼き」へと姿を変えていた。
「みーくん、お疲れ様。みんな、頼りにしすぎだよね」
「ああ。……凪、待たせたな。ずっと横で見ててくれたのか?」
「うん。……みーくんがみんなに必要とされてるの、誇らしいよ」
凪が湊の腕に密着し、周囲の女子たちに「この人は私のもの」と無言の主張を突きつける。その光景を見て、香織の握りしめたボールペンの先が、ノートの紙を突き破りそうになる。
「……ずっと、一緒なんて……」
香織の口から漏れた、自分でも気づかないような小さな呟き。美咲は、その切実すぎる響きに背筋が凍るような思いをした。
「香織、あんた、本気なの? あの二人の間に割って入るなんて、できるわけないじゃない。……中学時代からずっと見守ってただけの恋なんて、もう終わりにしなよ」
「分かってる……分かってるよ。でも、止まらないんだよ。目が離せないの。……ずっと前から、どうして」
香織の瞳には、涙が滲んでいた。それは湊への恋心というにはあまりに重く、どこか自己破壊的なほどだった。
湊は凪の腰に手を回すと、周囲の視線など無視して、彼女の頬に鼻先を優しく擦り付けた。
「……凪、今日も綺麗だな。ずっと見ていられる」
「……みーくん、急にそんなこと言わないでよ。みんな見てるのに」
「見ていればいい。俺が凪を愛していることは、この学園の全員が知っていても構わない」
そのやり取りを、美咲は複雑な思いで見守った。湊と凪は、その会話に全く気づいていない。二人の幸福感は、余りにも厚い壁となって周囲を隔絶している。
「……ねえ、みーくん。放課後、どこ行こうか?」
「行きたいとこあれば教えてくれ。なければ少し買い物でも行こう」
湊と凪の愛の檻は、今日も強固に二人を守り続けている。湊の腕の中で、凪は今日一番の笑顔を見せた。
「……みーくん、愛してる。本当に大好き」
「俺もだ」
教室の隅で、二人はまた一つ、誰にも邪魔できない愛の誓いを交わした。その幸福な光景のすぐ側で、香織の秘めた想いが静かに、しかし激しく熱を帯びていることを、親友の美咲だけが冷ややかに、そして切なく見守っていた。美咲は香織の震える肩にそっと手を置き、小さな声で囁く。
「……あんた、本当に取り返しのつかないことになってるよ。……湊くんは、凪ちゃんのことしか見てないのに」
湊と凪は、その声を聞くこともなく、夕陽に染まる校舎を並んで歩いていった。
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