大切なもののために
体育館の空気は、熱気と金属的な臭い、そして何より――湊という一人の少年の変貌に対する驚愕で満たされていた。
今日の体育はバスケットボールの対抗戦。体育館の片面では男子たちが激しい攻防を繰り広げ、その反対側のコートでは女子たちがバレーボールの練習に励んでいる。
かつての湊であれば、男子コートの隅で存在感を消し、ボールが回ってこないことを安堵し、目立たないようにやり過ごしていただろう。だが、今日の彼は違った。笛の合図とともにコートへ踏み出すその一歩からして、周囲の空気を変えていた。
試合開始直後、湊は淀みのない動きで相手のパスコースを読み切り、鮮やかにボールを奪い取った。
重力を感じさせない身のこなし、敵の隙を突き、床を蹴るたびに生まれる鋭い加速。これまで「地味な優等生」という仮面の下に隠していた運動能力が、一気に解き放たれる。ゴール下へ切り込み、マークにつく相手を冷静なフェイントで置き去りにすると、湊はリングに向かって高く跳躍した。
完璧なフォームで放たれたボールは、ネットを心地よく吸い込まれる。その音が響いたのと同時に、反対側のコートから、バレーの練習を中断した女子たちが一斉に視線を注いだ。
ボールを抱えたまま、彼女たちは練習を忘れて湊を見つめている。
「ねえ、あれって湊くん……だよね?」
「嘘でしょ、あんなに運動できるの? 昨日までのあの人と同一人物?」
「何か、今日すごくかっこいいんだけど……」
凪も、バレーボールを脇に抱えたまま、反対側のコートで汗を光らせる湊から目が離せなかった。
以前よりも力強く、けれどどこかこちらを探るような湊の視線。凪は思わず胸元を抑える。周りの女子たちの反応すら、今は「私の宝物が認められた」という高揚感に変換され、心地よいBGMのように響いていた。何より自分を思って変わろうとする湊の姿が嬉しかった。
試合中、かつて彼を「地味」だと陰口を叩いていた男子が、苛立ち紛れに湊へ強引なチャージを仕掛けてきた。明らかに悪意のある接触。しかし、湊は微動だにせず、冷静にその重心を見切ってかわした。
体勢を崩した男子を横目に、湊は一瞬だけ彼を冷ややかに見据える。
「……くそ」
その目には、「凪を傷つける隙など二度と与えない」という強固な意志だけが宿っていた。男子は、湊の底知れない眼差しに気圧されたようにその場に立ち尽くし、それ以上食い下がることはできなかった。
その光景を見ていた反対コートの凪は、誇らしげに口元を綻ばせた。
昼休み。湊と凪が屋上の踊り場で、いつもの聖域に身を寄せていた。そこへ、察しの良い涼と千尋が駆け込んできた。
「おい湊、お前……一体何があったんだよ! 」
「そうよ! みんな噂で持ちきりなんだから! あんた、あんなに堂々として……何かあったんでしょ? 正直に言いなさいよ!」
湊は、隣で楽しそうに微笑む凪の肩に、迷いのない動作で手を回した。凪はそれを拒むどころか、嬉しそうに彼の胸に寄りかかる。
「……別に、大したことじゃないんだ」
湊は凪の髪を優しく梳きながら、淡々と答える。
「俺がどう思われるかなんて、今までもこれからもどうでもいい。だが……俺が周りから馬鹿にされたり、陰口を叩かれたりして、凪に嫌な思いをさせるのが、耐えられなかっただけだ」
湊は凪の瞳を覗き込み、少しだけ表情を緩めた。
「凪が俺を想ってくれる気持ちを、俺の不甲斐なさのせいで台無しにして、凪まで傷つけるのは嫌だって思った。だから、凪の隣にいても誰にも文句を言わせない……堂々とした自分になろうって思った」
ストレートな言葉に、涼は一瞬呆気にとられたあと、破顔して湊の肩を力強く叩いた。
「……ハハッ! そうかよ、湊! お前、ようやく男になったな! ずっとモヤモヤしてたけど、お前がその気なら俺たちは全力で味方するぜ」
「そうよ、湊! あんた、もっと堂々としなさいよ! 凪ちゃんをあんなに幸せそうに笑わせておいて、地味に隠れてるなんて罰当たりなんだから! 私たちが保証するわ、あんたたちは最強のカップルよ!」
千尋が笑いながら焚き付けると、凪もまた、親友たちに祝福されているかのような現状に、これ以上ないほど幸福そうな表情を浮かべた。
「ふふっ、みんなありがとう。……でもね、私の自慢のみーくんだから、これ以上誰にも取られたくないの」
凪が湊の手をぎゅっと握りしめ、親友たちの前でわざとらしく湊の腕に抱きつく。それは「この人は私だけのもの」という、彼女なりの愛の再確認であり、所有権の誇示でもあった。
湊はそんな凪の独占欲を愛おしそうに見つめ、微かに笑みをこぼす。
「取られるわけないだろ。……お前以外を向くことなんて、未来永劫ないんだから」
「……もう、みーくんったら。みんなの前でそんなこと言ったら、また女子たちが騒ぐよ?」
「騒がせておけばいい。俺が見ているのは、いつだって凪、お前だけなんだから」
凪は湊のその言葉に、頬を真っ赤にして彼の胸に顔を埋めた。
もはや隠れる必要はない。自分を偽る必要もない。ただ、凪と共に歩くという「当然」を、彼はこれからもっと高い場所で証明し続けていく。
涼と千尋が見守る中、湊は改めて凪の指を絡め、彼女の顔を覗き込んだ。
「これから、俺はもっと堂々とするつもりだ。……お前が、ずっと笑顔でいられるように。誰にも、俺たちの関係を汚させない」
「うん……。私も、ずっとみーくんの隣にいるよ。一生、離してあげないから」
凪が湊のシャツを握りしめ、幸せそうに微笑む。その穏やかなやり取りの最中乾いたツッコミが入った。
「……お二人さん、私たちがいるの、完全に忘れてない?」
千尋が呆れたように腰に手を当てる。それを受けて湊が、まるで今初めて二人がそこにいたことに気づいたかのような顔で、あっさりと答えた。
「ああ、なんだ。……いたのか」
「ちょいちょい! ずっと前からいたわよ! 目の前で盛大なイチャイチャタイムを繰り広げられて、こっちがどれだけ気まずい思いをしたか……」
涼が肩をすくめて笑う。
「堂々とするのはいいけどよ、あんまり人前でそういう空気出されると、見てる方が目の毒なんだよな」
湊は至極当然のように、凪から手を離すこともなく首を傾げた。
「……別に、イチャイチャなんてしてないだろ。ただ普通に話していただけだ」
凪もまた、全く悪びれる様子はない。彼女にとって、湊とこうして言葉を交わし、傍にいることは日常の延長でしかないのだ。
「そうよ。これくらい、普通じゃない? みーくんと私は、いつでもこんな感じだし」
その堂々とした様子に、涼と千尋は顔を見合わせて溜息をついた。二人にとってはこの程度が日常のスタンダードなのだと悟り、同時に、これ以上踏み込んでも無駄だという空気を察する。
しかし、涼の心中には、どこか複雑な想いがあった。
涼は湊の新しい髪型をじっと見て、苦笑しながらぼそりと呟く。
「……それにしても、なんだかんだ、ちょっと悔しいな」
「悔しい? 何がよ?」
少し沈んだ様子の涼を見て千尋が首を傾げる。
「いや、湊にさ、『その髪型、絶対かっこいいから切ってみろよ』って、前々から何度も言ってたんだよ。それなのに、あいつは頑として首を縦に振らなかったくせに……」
涼は恨めしげに湊を指差す。
「凪ちゃんのためにこの変身ぶりだろ? 」
涼の言葉に、湊は真っ直ぐな瞳で彼らを見つめ返した。
「……涼、誤解するなよ。俺が変わったのは、凪ためだけどそれだけじゃない……」
湊は、言葉を選びながらゆっくりと続けた。
「昨日、お前たちが俺の悪口を言っていたに殴りかかろうとしてたって聞いてな。親友に暴行事件を起こさせたくないからな。千尋も、それを止めようとしながらも、俺のために文句を言おうとしてくれたって聞いた。凪に関してはその場にいる全員を抹殺するんじゃないかって目で見ていたらしいからな……」
「え……?」
千尋が息を呑む。涼もまた、ぎょっとした顔で湊と凪を交互に見つめた。
「……知ってたのか」
涼が苦笑混じりに呟く。
「ああ。俺のせいで、お前たちまでそんな思いをさせたくないからな。だから……俺自身が変わって、誰にも陰口なんて叩かせないレベルになる必要があった。大切なもののために」
その言葉の重みに、涼と千尋は言葉を失った。湊がただ「彼女に好かれたい」だけで変わったのではない。周囲のすべてを守ろうとする強い責任感と、親友への情がその背景にあったことに、二人はようやく気づいたのだ。
「……なんだ、そんなこと考えてたのかよ」
涼は照れ隠しに頭をかき、また一つ大きなため息をついた。
「凪ちゃんに言われて動いたってのは半分からかいだったけど、そんなこと考えてたとはな。……やっぱりお前はかっこいいぜ」
千尋もまた、少しだけ視線を逸らし、恥ずかしそうに頬を掻いた。
「……湊がいい人なのは知ってたし、親友の凪が悲しむのも嫌だったから熱くなっちゃってた……でも良かった。湊、大丈夫だって思ってるけど、これから私の親友に悲しい思いさせないでね」
「もちろん、悲しませるつもりなんてないし、一生手放すつもりもない」
「…///」
堂々という湊を見て凪が頬を赤く染める。
そんな様子を見て親友は「良かったな」「良かったね」と互いの親友を見て呟く。
「それにしても凪があいつらを見る目怖かったわ」
「だって、みーくんを傷つける人は必要ないもの。排除できるなら、それが一番手っ取り早いでしょう?」
その言葉があまりに自然で、かつ容赦ない響きを帯びていたため、涼と千尋は思わず後ずさった。
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