変化
その日の夜、帰ってきた湊を迎えた凪は、ドアを開けた瞬間に言葉を失い、その場に立ち尽くした。
「……みーくん?」
そこには、いつもの少し俯いた少年の面影はなく、精悍な顔立ちを露わにした湊が立っていた。重たいカーテンのように顔を覆っていた前髪は切り払われ、露わになった凛々しい眉と、意志の強さを湛えた瞳が、部屋の明かりを反射して射抜くように凪を見つめている。以前の「守ってあげたい儚げな少年」は消え去り、そこには大人の気配を纏い始めた、息を呑むほど美しい青年がいた。
凪は夢でも見ているかのように、一歩ずつ慎重に距離を詰める。彼女の手が、震えながら湊の頬に触れた。肌の温かさが、それが現実であることを告げる。湊がその手を取り、自分の腰に回すと、凪は抗うことなく彼の胸に吸い寄せられた。鼓動が、衣服越しに直接伝わってくる。以前よりもずっと逞しく、力強いリズムだった。
「かっこいい……。ねえ、本当のみーくんは、こんなに素敵だったの? 私、今までずっと隠し持っていた宝物を見せつけられてるみたい」
(髪切って正解だったな)
涼からは『髪切ればかっこいいのに』と何度も言われていた。幼いときは髪が短かったから凪はその時の湊の顔を見ているはずだが、湊の顔は思春期を経てだいぶ変わった。驚くのも無理はないだろう。夜の時間も薄暗かったせいで湊の顔はあまり見えていなかっただろう。
凪は彼の首に腕を絡め、背伸びをして唇を重ねた。いつもより少し強引な口付けに、湊が深く応える。狭い部屋の中、二人の吐息と心音だけが重なり合う。凪の指先が、湊の新しい髪型を確かめるように、何度も何度も梳かれた。
(……かっこいい。世界で一番かっこいいよ、みーくん)
しかし、その甘い抱擁の最中、凪の心には棘のようなモヤモヤが突き刺さっていた。愛おしさと同時に、凪の胸を占めるのは冷たい焦燥感だった。これほどまでに魅力的な姿を、自分だけが知っていればいい。明日、この姿を学校中の女子たちが見れば、必ず騒ぎになる。自分だけのものだった「秘密の少年」が、みんなの「憧れの存在」に奪われていくような気がして、凪は無意識に湊を強く抱きしめ返した。
(私以外の誰にも、こんな顔見せたくない……。みんなに自慢したいけれど、でもやっぱり誰にも教えたくない)
その強烈な独占欲に気づいたのか、湊が凪の髪を優しく撫でた。
「どうした? ……何か不安なのか?」
凪は湊の胸に顔を埋めたまま、小さく首を横に振った。
「嫌じゃないの。でも、すごく悔しい。明日から、みんながみーくんを見る目が変わるんでしょ? みんなが『湊くんかっこいい』って騒ぐのが、すごく嫌なの。私だけのものだったのに」
湊は凪の心の内を察し、彼女の頬を両手で包み込んで、真っ直ぐに見つめた。
「誰がどう見ようと、俺は凪のものだ。それだけは一生変わらない」
湊の低く落ち着いた声に、凪は少しだけ安堵した。それでも、明日という日が自分にとって「嬉しいのに、とてつもなく寂しい」日になることを予感して、彼女は湊のシャツを握りしめる力を強めた。
翌朝。
校門へと続くいつもの並木道。
いつもなら、湊は少し猫背気味に歩き、凪の背中に隠れるようにして校舎へ向かっていた。だが、今日の世界は明らかに違っていた。
木漏れ日が、湊の顔立ちを鮮明に照らす。昨日、美容院で整えられた髪は朝風になびき、露わになった目元は以前の曇りを脱ぎ捨て、凛々しさと、凪を守るという確固たる意志を湛えている。
凪は隣を歩きながら、その横顔を穴が開くほど見つめていた。
昨日まで自分だけの聖域に隠れていた「宝物」が、今、不特定多数の視線に晒されている。登校する生徒たちの表情が、驚愕から戸惑いへ、そして――じわりと芽生える憧憬へと変わっていくのが手に取るように分かった。
「みーくん、みんな見てるよ。昨日まであんなに馬鹿にしてた人たちまで、口を開けたまま動けないでいる」
凪が少しだけ喉を鳴らして囁く。その声には、昨晩の独占欲と、今の高揚感が入り混じっていた。
湊は足を止めることなく、真っ直ぐに前を見据えたまま、凪の指の隙間に自分の指を深く食い込ませた。隙間を一切許さない、逃がさないための握り方。そのまま、凪の歩調に合わせ、肩を並べて歩き出す。
「……気にしなくていい。ただ、お前が誰と一緒にいるのか、みんなが納得してくれれば、お前の耳に余計な言葉が入ることもなくなるだろ」
その言葉を聞いた瞬間、凪の心の中のモヤモヤは霧散した。
湊の声は静かだった。かつてのような卑下や怯えは消え、そこにあるのは愛する者を守るための、穏やかだが揺るぎない覚悟だけだ。彼にとっての変革は「見せつける」ためではなく、あくまで凪を守るための手段に過ぎない。
校門をくぐった瞬間、周囲の空気が張り詰めた。
女子たちは足を止め、湊の姿を二度見し、そのまま釘付けになっている。
「……あれ、湊くん? 何か、すごくかっこよくなってない?」
「うそ、あんな雰囲気だったっけ……。凪ちゃんとお似合いすぎて、言葉が出ない」
あからさまな憧れの眼差しが湊に突き刺さる。以前なら凪が守る側だったが、今の湊は、その視線さえも凪を守るための鎧として、凪の手を離さずに歩き続けた。
教室に入ると、さらにざわめきが広がった。湊をかつて嘲笑していた男子たちは、入り口で立ち尽くしたまま、呆然と口を開けている。彼らの目には、堂々と凪の隣を歩き、完璧に彼女をエスコートする湊の姿が、理解不能な異物として映っていた。
湊は教卓の前を通り過ぎる際、自分を軽んじていた男子と視線がぶつかった。
以前なら視線を伏せていた湊だが、今は違う。彼は凪の手を握り直すと、ただ一言、穏やかな視線を向けた。その瞳には、凪という存在を誰よりも大切にしているという、静かな誇りが宿っている。
侮蔑の言葉を投げかけようとしていた男子は、湊の澄んだ眼差しに射抜かれ、何も言えずに反射的に視線を逸らした。
席に着くと、湊はすぐ隣の凪を見つめた。繋いだ手を離す気配はない。彼はその手を、机の端から、他の誰からも見える位置に堂々と置いていた。
「……疲れてない?」
「ううん、全然」
凪が頬を染めてくすりと笑うと、湊は凪の手を握りしめたまま、自分の机に視線を戻した。
「……疲れる必要なんてない。ただ、誰にでも分かるようにしているだけだ。お前が俺にとって大切な存在だってこと、誰にも疑わせないために」
湊の声は低く、平熱のままだった。だが、その瞳だけは、凪以外の存在を一切受け付けないという排他的な光を宿している。凪は、その冷たいほどに独占的な眼差しに触れ、背筋がゾクリとするような快感を覚えた。





