湊の決意
昼休み。湊と凪は屋上へ続く階段の踊り場で、言葉を交わした。ここは二人だけの聖域だ。
「みんな、だいぶ気付いてきたね。……湊くんのこと、色々言ってるみたいだけど、大丈夫?」
「ああ。……俺への評価なんてどうでもいい。俺にとって一番大切なのは、凪と凪の隣にいることだから」
湊は踊り場の窓から差し込む光の中で、凪の顔をそっと眺めた。誰にも聞かれないこの場所だけが、彼らにとっての真実の居場所だ。凪は湊の手を握りしめ、その体温を確かめる。
「ねえ、みーくん。これ以上、隠しきれなくなったらどうする?」
凪の問いに、湊は窓の外の青空を眺めながら、穏やかに即答した。
「その時は、堂々とすればいい。凪と一緒にいられさえすればいいからな」
湊の真っ直ぐな言葉に、凪は胸が熱くなるのを感じ、彼の胸元にそっと頬を寄せた。しかし、彼女は湊のネクタイを指先でなぞりながら、表情を曇らせた。
「……ねえ、みーくん。あの人たちが、あんなふうに言ってるの……私、すごく嫌なの」
「あの人たち? 誰のことだ?」
凪の声は震えていた。だが、それは悲しみによるものではない。彼女の瞳の奥で、どす黒く、そして鋭く燃え上がるのは、混じりっけなしの「殺意」にも似た怒りだった。
「……男子たちだよ。みーくんのこと、『ただのガリ勉』だとか『面白みがない』だとか、凪には『不釣り合い』だとか……。自分たちのちっぽけな物差しで、みーくんの価値を決めつけやがって」
凪は拳を強く握りしめ、爪が食い込むほどに白くさせながら、獣のような低い声で吐き捨てた。
「許せない。死ぬほど許せないわ。……みーくんのこと何も知らないくせになんでみーくんをそんなふうに呼んでるの? ……私だけの宝物を……あいつら、本当に何様のつもり?」
彼女の全身から、普段の清楚な面影を塗りつぶすような殺気と、冷徹な支配欲が溢れ出していた。彼女にとって、湊への侮辱は、自分の所有物を損壊されることと同義であり、それは彼女の逆鱗を最も的確に踏み抜く行為だった。
「みーくんは、誰よりも優しくて、頭も良くて、世界で一番かっこいいの。……それなのに、そんなことも分からないあいつらが、みーくんを傷つけるなんて。……ねえ、みーくん。私、今すぐあいつらを二度とそんな口が利けないようにしてやりたいくらいよ」
湊は驚いて目を見開いた。自分が言われていることに対して凪がそこまで怒ってくれるとは、想像していなかったからだ。
「凪……俺は、彼らの言葉なんて気にしてないよ。むしろ、凪とこうして一緒にいられるなら、何だって言わせておけばいい」
「ダメ! みーくんが平気でも、私は嫌なの!」
凪は湊の手を両手で強く握りしめた。その瞳には、普段は見せない強い意志が宿っていた。
「それにね、涼や千尋だって、同じ気持ちだよ。涼なんか、昨日も廊下で悪口言ってる男子を殴りそうになって、千尋が必死で止めてたんだから!」
「涼が……そこまでか?」
「そうだよ! 千尋も昨日、私に言ったの。『湊の良さが分からないなんて、みんな見る目がない! 湊が何もしないから、私が文句言ってきてやろうか!』って」
湊は、自分が守りたかった平穏が、実は親しい友人たちにストレスを与えていたことに気づき、言葉を失った。
湊は凪の手を握り返し、小さく息を吐いた。自分一人が我慢すればいい、そう思っていた。凪の隣に居られさえすれば、周囲の冷たい視線や陰口など、自分にとっては取るに足りないノイズでしかなかったからだ。
だが、今の凪の震えるような怒りと、涼や千尋までが自分を思って憤慨してくれているという事実を知り、湊の中で何かが音を立てて崩れた。
「……そうか。俺が黙っていることで、みんなにまで余計な苦労をさせていたんだな」
湊の言葉に、凪は瞳を潤ませながら、力強く首を横に振った。
「違うの。みーくんが悪いんじゃない。……ただ、みーくんが思っている以上に、周りはみーくんのことを誤解してる。……みーくんを大切に思っている私たちが、それを黙って見過ごすのが一番悔しいの」
湊は自分の胸の中で凪の心臓の鼓動を聞きながら、一つの決意を固めた。
「……わかった。凪。ごめん、気づかなくて。……みんながそこまで思ってくれてるなら、俺ももう、ただの『大人しい地味な奴』でいるつもりはない」
凪は一瞬、何を言っているのか理解できなかった。
湊はこれまで「周りのことなんて気にせず、凪の隣で静かに笑っていればいい」と、まるで自分たちを世間から切り離した聖域に閉じ込めていた湊が、自らその扉を開けようとしている。
凪は湊のシャツの襟元を掴んだまま、首を傾げた。その瞳には、さきほどまでの殺気立つような怒りはもう消え失せ、代わりにぼんやりとした戸惑いだけが浮かんでいる。
「……どういうこと? みーくん、急に」
凪にとって、世界はあくまで「自分と湊」の二軸で回っている。さきほど男子たちの心無い言葉に触れ、自分の宝物が傷つけられた気がしてカッとなったが、今は湊の温もりに触れて、その怒りもじんわりと溶け始めていた。
湊が言った「地味な奴でいるつもりはない」という言葉。それを凪は、せいぜい「今までより少しだけ、人前で親しくしてくれるのかな?」とか、「ちょっと強気に振る舞って、周りを黙らせてくれるのかな?」程度の、甘い変化としてしか捉えていない。
「具体的に、どうするつもり? ……私、みーくんが変な無理をして、また静かな場所から追い出されるのは嫌だよ?」
凪の言葉には、彼を案じる純粋な愛と、これまで通りの穏やかな日常が揺らぐことへのわずかな不安が混じっていた。彼女にとっての理想は、今のまま、誰にも邪魔されない特等席で二人だけの世界を紡ぎ続けることだ。
湊は、凪の髪にそっと手を添え、優しく撫でた。
「……無理なんてしないよ。ただ、これまでは俺、周りなんてどうでもいいと思ってた。でも、俺の考えのせいで、お前や、涼や千尋まで嫌な気持ちになるのは我慢できないんだ」
「みーくんが責任を感じる必要はないよ。……あの子たちが何と言おうと、私たちが幸せなら関係ないじゃない」
「いや、違うんだ。……凪の隣にいても、誰も何も言えない、そんな存在でありたい」
湊の声は静かだが、その響きにはこれまでのような迷いは一切なかった。凪は少しだけ顔を上げ、きょとんとした表情で湊を見つめた。
「……でも、そんなこと」
「俺が隣にいても、誰も何も言えない……いや、言わせないような存在になる。凪、お前の隣が俺であるという事実を、周りが『当然』として受け入れざるを得ない存在になればいいんだ」
凪は面白がるように、湊のネクタイをゆっくりと結び直した。自分を愛するあまり、少しだけ男を見せようとしている——その健気で、少し背伸びをした姿が愛おしくてたまらないという顔をしている。
「ふふっ、なんだか難しいこと言ってるね。そんなに気負わなくても、私にとってのみーくんは、最初から一番価値がある存在だよ?」
「……ああ。そうだな。でも、みんなが俺を見る目が変われば、お前がもっと笑って過ごせるようになるはずだ」
「楽しみだな。……ねえ、具体的には何をしてくれるの? 私を驚かせてくれるんでしょ?」
凪は期待に満ちた瞳で湊を仰ぎ見た。彼女が期待しているのは、せいぜい「みんなの前で堂々と手を繋いでくれる」とか「誰かの陰口に少し強気に言い返してくれる」程度の、甘い変化だ。
湊はそんな彼女の無邪気な瞳を見つめながら、心の中で小さく笑った。彼女が望む「穏やかな日常」を維持するために、自分がこれから行おうとしていること。それは、自分たちを守るために自分を変える。幸せの為に演じること。自然と認めざるを得ないように。
「……ああ、凪と堂々と一緒にいられるように」
「本当? 約束だよ!」
凪は嬉しそうに湊の指を絡め、自分のものだと誇示するように繋いだ。
今までは演じること苦しいことから逃げるため。自分を守る為だった。
しかし今回は違う。自分たちの”幸せ”のため、大切な親友や愛する凪のため、そして自分のために。





