昼休み
昼休み。校内食堂は、食べ盛りの生徒たちの喧騒と、揚げ物の香りで充満していた。四人が集うのは、食堂の片隅にある四人掛けのテーブルだ。涼がすでに席を確保し、湊と凪がそこに加わる。湊は、あえて凪から席一つ分を空けて腰を下ろした。周囲の目がある以上、露骨な接触は徹底して避ける。それが「優等生・湊」の信条であり、この危うい演劇を維持するための絶対的なルールだった。
「おう、湊。凪ちゃん、また遅かったな」
涼がいつものように悪戯っぽく肩を叩く。
「……ああ。午前の授業の証明問題、少し補足が必要だったからな。長引いた」
湊は淡々と答える。嘘ではない。ただ、その「補足」がどれほど凪に向けた独占欲に満ちていたかは、涼たちには知る由もない。
凪が少しだけ慌てたように視線を泳がせる。
「あ、それは……その、そう。質問してたの。湊くんの説明、すごく分かりやすくて」
「へえ、熱心だねえ。湊くん、成績トップが凪ちゃんに個人指導? 独り占めってわけ?」
千尋がニヤリと笑う。彼女の視線には、二人の関係をすべてお見通しだという余裕が混じっている。
「二人だけの秘密の授業ってこと?」
千尋の冗談に、凪の頬がわずかに紅潮した。
「ち、ちがうよ! 普通に……」
凪が言い淀むのを尻目に、千尋は「ふふ」と楽しそうに笑う。
「あ、湊くん。凪の卵焼き一個もらってもいい? 」
「……好きにしろ」
湊はわざと素っ気なく答える。だが、テーブルの下では、湊の革靴の先が凪の靴に軽く触れた。そして二人は見えないところで手をにぎりあう。ほんのわずかな時間の、小さな接触。凪の身体がわずかにビクッとする。この瞬間、周囲の喧騒は二人の耳から遠ざかり、互いの皮膚から伝わる微かな熱だけが世界の中心となる。
「凪?どうしたの?」
と千尋がニヤニヤしながらきく。
「……え!あ!なんでもない、千尋ちゃん、卵焼きおいしい?」
「うん! 絶品。……ねえ顔を赤くしてる湊くん、凪ちゃんのお弁当、毎日こんなにおいしそうなの?」
「……いつもうまい」
湊は短くそう答えると、すぐに視線を自分の弁当に戻した。冷徹で淡々としたその口調は、周囲からすればいつもの湊と変わらない。だが、千尋は湊の耳の付け根がわずかに赤らんでいるのを見逃さなかった。
「ふーん。毎日食べてるんだ。へえ、仲良しだねぇ」
千尋の冷やかしに、凪は「もう、千尋ちゃんったら」と口をとがらせながらも、隠しきれない幸福感で頬を緩めていた。二人の手がテーブルの下で重なっている時間は、わずか数秒だった。湊は凪の手のひらの汗を感じ取り、自分がどれほど彼女の体温に飢えていたかを再確認する。しかし、次の瞬間には、湊はごく自然に凪の手を離した。
これ以上は危険だ。今の二人は、涼や千尋の助けを借りて「幼馴染としての距離を縮め始めた」段階に過ぎない。ここで強引に踏み込めば、積み上げてきた「優等生」としての湊の仮面が崩れかねない。
「……湊、お前さ、凪ちゃんのお弁当の感想、それだけかよ? もうちょっと気の利いたこと言えねえのか?」
涼が呆れたように笑いながら、自分のカツ丼をかきこむ。湊は箸を止め、少しだけ不機嫌を装って涼を睨んだ。
「……味に文句を言っているわけじゃない。余計な世話だ」
「はいはい、そうですねー」
涼は笑いながら肩をすくめる。そのやり取りを見て、凪は安心したように安堵の息を漏らした。この空気感こそが、今の二人にとって最も安全な隠れ蓑だった。
「……本気で感想言っていいなら言うけど歯止めが効かなくなるぞ……」
周りには聞こえない声で湊は呟く
「……あの湊がこんなにデレデレになるなんて凪は一体何をしたの……」
食堂を後にし、午後の教室へ向かう廊下。四人は自然な形で列を作り、歩き出した。湊と凪は並んでは歩かない。湊が先を歩き、凪がその後ろで涼や千尋と談笑している。その背中を見つめながら、幸せだなと湊は思った。
階段を上る際、湊がふと足を止め、後ろを振り返る。ちょうど凪が階段を一段上ったところで、二人の視線が真っ直ぐにぶつかった。言葉は交わさない。けれど、その瞳の奥には、さきほどテーブルの下で交わした熱の余韻が宿っている。
「……湊くん、どうしたの?」
凪が何気なく尋ねる。湊は平静を装い、短く答えた。
「いや。……午後の授業、準備はできているかと思っただけだ」
それだけを告げて、湊はまた前を向いて歩き出した。凪はその背中を見て、小さく微笑む。涼が「お前ら、また勉強の話かよ?」と笑い飛ばす声が廊下に響く。その平和で、どこか退屈な日常のやり取りこそが、今の二人が最も守りたかった世界だった。
教室に戻り、自席に着く。湊は窓の外を見つめながら、先ほど触れ合った手のひらの熱がまだ冷めないのを感じていた。





