作戦開始
月曜日の朝。寝室のカーテンから差し込む淡い光が、二人だけの吐息と熱で満たされた空間を白く照らしていた。シーツの端々に染み付いた昨夜の、いや、この週末二日間で何度も繰り返した愛撫の余韻が、湊の脳裏に鮮明に焼き付いている。湊は、腕の中で穏やかな寝息を立てる凪の髪を、慈しむように何度も撫でた。かつて義兄妹という血の呪縛で引き裂かれ、地獄のような孤独を味わった二人が、今こうして同じ朝を迎え、肌を重ね合わせている。それは奇跡であり、彼らにとっての絶対的な救いだった。
凪が小さく身じろぎし、吸い寄せられるように湊の胸元に顔を擦り付ける。その無防備で愛らしい仕草に、湊は抗いがたい独占欲を覚えた。
「……ん、みーくん。もう朝……?」
「ああ。……今日から、学校でも一緒にいられるように頑張ろうな」
湊の言葉に、凪は完全に意識を目覚めさせたのか、とろんとした艶やかな瞳を湊に向けた。その瞳は、朝の光を浴びて宝石のようにきらめいている。
「うん……そうだね。……ねえ、みーくん」
「なんだ?」
「うまくいけば、学校でも、これからは私のこと『ただの幼馴染』としてじゃなく、恋人として扱ってくれるんだよね」
凪の瞳には、かつて兄妹だった頃の健気さは微塵もなく、ただ愛する男を独占したいという強欲な輝きが宿っている。湊は彼女の熱を帯びた頬に唇を寄せ、小さく頷いた。
「ああ、望む通りに。……だが、いきなりだと一番注意を引く存在になる。まずはあくまで『幼馴染として少し距離が縮まった』という、周囲が勝手に納得するレベルに留める。俺たちには、その狡猾さが必要だ」
「分かってる。……でもね、私、みーくんの隣にいられるだけで、それだけでいいの。それに……」
「それに?」
「なんか……心臓が止まりそうなくらいドキドキするね」
「……俺もだ。だが、冷静になれ。俺たちの関係が露見すれば、凪、お前が一番傷つくことになる。それは絶対に避けなければならない」
「分かってるってば。みーくんの隣で、平気な顔をして笑って見せる。……それが一番の刺激なんだから。ねえ、みーくんも、私を『ただの幼馴染』として、冷たく突き放す演技、できるんでしょ?」
凪の悪戯っぽい問いかけに、湊は低く笑った。二人はそのまま洗面台へ向かった。鏡の中に映る二人の姿。ネクタイを整え、制服を正すその短い時間さえも、二人にとっては秘め事の延長であり、これから始まる劇の予行演習だった。凪が湊の襟元を整える間、彼女の指先が湊の喉仏をかすめる。その一瞬の刺激に、湊は理性が軋むのを感じた。
「みーくん、襟が曲がってるよ」
「……ああ。お前が直してくれるなら、どんなに歪んでもいい」
「もう、変なこと言わないの。……行ってらっしゃい、私の旦那様」
家を出て、駅までの道中、湊はわざと少し前を歩く。かつての彼なら当然の距離だが、今の二人にはそれが「演技」だと分かっている。凪はそれに合わせ、あえて小走りで湊の背中を追いかけた。以前は一緒に歩くことさえ制限されていた二人の距離が、今や自分たちの意思でコントロールできる。その支配感が、湊の冷徹な知性をより一層昂らせた。
「ねえ、みーくん。今日の昼休み、また涼くんたちが声をかけてくれるんだよね?」
「ああ。食堂での遭遇、これが最大の難所だ。だが、お前なら平気だろ? 涼たちも俺たちの『共犯者』だ」
「もちろん。……だって、みーくんが隣にいてくれるもん」
校門をくぐると、湊の表情は完全に「冷徹な優等生」の仮面へと切り替わった。学年トップの成績を誇る湊は、教師からも生徒からも信頼される存在だ。彼が凪に対してこれまで徹底して無関心を装ってきたことは周知の事実だ。だからこそ、今朝の小さな変化は劇的な効果を生む。
湊は凪の席へ歩み寄り、周囲に聞こえるように冷めた口調で声をかけた。
「……凪。週末に貸した問題集だが、三ページ目の証明、間違ってたからあとで正しい手順を教えてやる」
教室が、わずかにざわめいた。「湊が、凪に話しかけた?」「珍しいこともあるもんだな」という視線が突き刺さる。湊はあえて無表情を貫きながらも、凪の瞳に浮かぶ「もっと構って」という熱い視線を逃さなかった。
湊が去った後、涼がすかさず凪の机を叩く。
「おい凪、湊のやつ、今日はやけに世話焼きだな。あいつ、自分の勉強で忙しいのに、お前には甘いんだから」
「そうかな……。幼馴染だし、最近少しは丸くなったのかも」
「丸くなった? ああ、そうかもな。昨日の週末、何かあったんじゃないのか?」
「……仲直り?じゃないけど一緒に話してまた昔みたいに話せるようになったの」
凪が幸せ全開の笑顔で応えるのを見て、千尋が周囲の女子を巻き込んで微笑ましいように笑う。
「ねえねえ、二人とも昨日の週末、何かあったの? なんか雰囲気変わったよね。湊くん、前はもっと凪ちゃんに冷たかったのに」
「凪ちゃんもなんかすっごく幸せそう!」
「……週末は勉強を教えてもらったの。それだけだよ」
作戦は滑り出しから順調だった。湊は自席に戻りながら、凪の方を振り返ることはしなかった。しかし、机を挟んで交わされる視線、ノートの端に添えられた些細な付箋、休み時間にふとすれ違う距離感。その全てが、二人にとっての「合図」だった。
湊は窓の外を見つめながら、心の中で凪の温もりを反芻した。頭の良い湊が構築したこの作戦は、凪という甘い毒を、周囲に気づかせずに日常へと浸透させていく。檻だったはずの教室は、今や二人だけが主役の演劇の舞台となっていた。
「……よし、まずは第一段階クリアだな」
湊はペンを回しながら呟いた。次は、昼休みという最大の難所。食堂で、いかに「恋人らしい親密さ」と「幼馴染という日常」を両立させるか。彼は凪の背中に向けた視線を、より深く、より熱くした。





