共犯者と授業
授業は淡々と、しかし湊にとっては途方もない長さを感じさせる速度で進んでいった。黒板にチョークが走るカツカツという硬質な音。教壇で教科書を繰る乾いた音。それらは日常の単調な記号に過ぎないはずだが、今日の湊にとっては、まるで心拍と同期するメトロノームのように妙な生々しさを伴っていた。
板書される数学の数式は、湊にとっては何の変哲もない、瞬時に解き明かせる記号の羅列でしかない。だが、思考は別の場所に囚われていた。視線は教科書の上をなぞっているようでいて、その意識は完全に、背後の空間に充満する「凪という存在」にロックオンされていた。
背後で凪がページをめくる音。わずかに衣類が擦れ、椅子が軋む音。それら一つひとつが、昨夜寝室で交わした言葉や、肌に触れた柔らかな感触を脳内で鮮やかに再生させるトリガーとなる。この静寂に支配された教室という空間で、自分たちの「聖域」の続きが、目に見えない糸となって背中合わせに繋がっているような奇妙な錯覚。それは、隠し事の背徳感と、共有する秘密の甘美さに他ならなかった。
湊は、自分が今、かつてないほど「生きて」いることを実感していた。学校という、自分を完璧な秀才という仮面で縛り付ける檻。しかし、その檻の中のすぐ背後に、自分のすべてを委ね合える唯一無二の存在がいるという事実は、退屈極まりない日常を、劇的な物語へと変貌させていた。
ふと、隣で涼が小さく鼻を鳴らしたのが聞こえた。
「……おい湊、さっきからノートの端、シャーペンで突きすぎだぞ。穴が開くくらい執拗に紙を傷つけて、……そんなに凪が恋しいか?」
涼は教科書で口元を隠しながら、極めて事務的な、それでいてどこか面白がるような小声で冷や水を浴びせてくる。湊は表情ひとつ変えず、突き刺したシャーペンの跡を隠すように、ノートの角を整えた。
「……別に。ただ少し、思考が逸れただけだ。気が緩んでいるのかもしれないな」
「へえ、あの完璧な浅井湊が、ねえ。昨日の夜、狭い部屋で二人きりだった余韻が、まだ全身の細胞に残ってんのかよ。……ま、無理もねえか。あの凪が倒れて、お前が必死になって……そんな嵐みたいな夜を過ごしたんだ。学校の授業なんて、お前にとっちゃつまらないだろうしな」
涼の飄々とした口調に、湊はわずかに眉を寄せた。神崎涼という男は、湊の最も危うい部分――凪に対する狂気にも似た執着を理解しながら、それを軽くいなして、日常という仮面を維持させる天才だ。彼がいなければ、この歪な関係はとっくの昔に周囲に露見し、学校という狭い社会の中で袋叩きに遭っていただろう。涼という盾は、湊にとってなくてはならない共犯者だった。
「……涼、感謝している。……あと、千尋にも」
口にするのはこれが精一杯だった。湊は他人に感情を露わにすることを好まない。しかし、昨日の「過労」という嘘に救われた事実は、重く胸に残っていた。涼は少しだけ驚いた顔をしたが、すぐに肩をすくめて、呆れたように笑った。
「感謝なんていいよ。お前らが壊れたら、俺の退屈な日常も面白くなくなるだろ。それに、千尋が一番張り切ってるんだから、礼を言うならあいつに言ってやれよ。あいつ、昨日からお前らのこと考えてニヤニヤが止まらないんだから」
涼の視線が後方を指す。湊は釣られるようにして、後方の席に目を向けた。そこには千尋が座っており、こちらの視線を感じ取ったのか、すぐに振り返って悪戯っぽくウィンクを寄越してきた。千尋の瞳には、湊と凪の「特別」をただ面白がるだけでなく、それを全力で守ろうとする共犯者特有の愉悦と情熱が宿っている。
湊は無言のまま短く頷き返し、またすぐに視線を窓の外へと戻した。窓から差し込む陽光が、教室の空気を暖めていく。それは五月の柔らかい光であり、二人の秘密を優しく包み込むカーテンのようでもあった。
その時だった。
背後で、凪が少しだけ身じろぎしたのか、椅子の軋む音がカチリと響く。その直後、湊の背中に、彼女の熱を帯びた視線が突き刺さるような感覚を覚えた。昨夜の寝室で、あんなにも無防備に、弱々しく体温を預けてきた彼女が、今は教室という檻の中で、自分の背中を真っ直ぐに見つめている。
ああ、たまらない。
この、喉の奥がヒリつくような感覚。
湊は深く、深く息を吐き、静かに目を閉じた。「他人のふり」という過酷なルールに縛られているからこそ、この背中で感じる彼女の気配が、何よりも甘美で、何よりも毒になる。彼女の体温、彼女の呼吸、そして彼女の視線。それらすべてが、湊という人間の内側を侵食していく。
放課後の約束。四人での寄り道。
凪を病み上がり祝いという名目で親友二人には色々聞かれるだろう。二人に協力してもらえれば学校でもなぎと一緒にいられる時間が増やせるのでは。と、そんなことを考えながら湊は残りの退屈な授業を、凪と同じ時を刻みながらやり過ごした。





