仲間
遮光カーテンの僅かな隙間から、五月の鮮やかで眩しい朝光が、一筋の白いラインとなって寝室のフローリングを真っ直ぐに照らし出していた。空気中に舞う僅かな埃さえも、その光の筋の中でキラキラと黄金色に輝いている。
「……ん。みなと、起きて。金曜日だよ」
耳元で、少しだけ弾んだ、けれどどこか抑えられた愛らしい声が響く。それと同時に、この数日間ずっと湊の五感を支配していた、あのシトラスの爽やかな香りが鼻腔をくすぐった。 ゆっくりと重い瞼を持ち上げると、そこにはすでに制服のブラウスに身を包み、短いスカートを揺らしてベッドの端に腰掛けている凪の姿があった。
逆光を浴びて、彼女の艶やかな黒髪の輪郭が眩いほどにきらめいている。昨日まで彼女の頬を不自然に染め上げていた病の赤みは完全に引き去り、そこにはいつもの、吸い込まれそうなほど透明感のある白い肌が戻っていた。じっと湊を見つめる大きな瞳にも、確かな力強い輝きが宿っている。
「凪。もう完全に、治ったな」
湊は身体を起こしながら、寝惚け眼のまま、念を押すように彼女の顔を覗き込んだ。凪はそんな湊の過保護な様子が可笑しくてたまらないといった風に、悪戯っぽく微笑みながら、自分の額を細い指先でトントンと小突いてみせた。
「うん! 完璧。昨日一日、みーくんを独占してずっと一緒に過ごして、いっぱいぎゅってしてもらったからね。エネルギーなら、もう満タンだよ」
そう言って胸を張る凪の表情には、学校の教室で見せるような、周囲を冷たく突き放す「高嶺の花」の面影など微塵もなかった。ただただ、目の前にいる少年だけに向けられた、無防備で、愛おしさに満ち溢れた一人の少女の顔だった。
「今日の学校はちゃんと頑張れるよ。……でもね、後ろの席からみーくんの広い背中をずっと見られるんだって思うと、なんだかいつもより、学校に行くのが楽しみになっちゃった」
「……馬鹿なことを言うな。いつも通りにするだけだ」
湊はあえて抑揚のない淡々とした声で告げ、ベッドからシーツを押し退けて立ち上がった。だが、その胸の奥底には、凪には決して悟らせない、静かな安堵と確かな高揚感が張り付いていた。 水曜日の放課後、主を失ってぽっくりと空いていた、あの冷え切った後ろの席。あそこへ、自分の世界のすべてである少女が戻ってくる。その事実、その景色を取り戻せるというだけで、今日一日の退屈で無機質な授業に耐える理由としては、あまりにも十分すぎるほどだった。
お互いに制服のネクタイとリボンを締め、いつものように「ただの幼馴染」のルールに従って、数分の時差を置いてマンションの重い扉を出る。 初夏の瑞々しい風が吹き抜ける通学路を、二人は一定の距離を保ちながら、けれど同じ目的地へと向かって歩んでいった。
ガラガラ、と小気味よい音を立てて教室の引き戸を開けると、そこにはいつも通りの、退屈で騒がしい朝の日常が広がっていた。友人グループで集まって大声で笑う男子たち、鏡を囲んで髪型を気にする女子たち。その喧騒が、容赦なく湊の鼓膜を叩く。
湊はいつものように完全に表情を消し去り、一歩一歩、自分の席へと近づいていった。カバンを机のフックにかけた、まさにその瞬間だった。 すぐ隣の席に座る神崎が、手元の日誌を広げたまま、不敵で、けれどどこか嬉しそうな笑みを浮かべて顔を上げた。
「よお、湊。おはよ。……お、顔色バッチリ戻ってんじゃん。昨日は随分と、重度の『過労』だったみたいだな?」
周囲には絶対に聞こえない、けれど確実に湊にだけ届く絶妙な低音。その言葉に含まれた強烈な皮肉と、それ以上の温かい気遣いを感じ取り、湊は視線だけを僅かに涼へと向けた。
「……おはよう、涼。昨日は色々とすまなかった。お前のフォローには、心から感謝している」
湊が同じように声を潜めて告げると、神崎は「いいって。あいつらにも上手く言っといたからさ」と、少しだけ気恥ずかしそうに鼻の頭を指先で擦り、肩をすくめた。昨日、千尋の鋭いツッコミによって、良かれと思った嘘が危うく墓穴を掘りかけた一件を思い出し、内心で冷や汗をかいていたのは秘密だった。
するとそこへ、名前順の離れた前方の席から、湊の登校を今か今かと待ち構えていた千尋が、弾むような足取りでこちらに歩み寄ってきた。その顔には、昨日裏で完璧なカモフラージュを仕掛けてくれた時のような真剣さはなく、いつもの楽しげな悪戯心が満載に浮かんでいる。
「湊、おはよ! ちょっと、目の下の酷いクマはすっかり消えてるみたいだけど……なんか、いつもより全体の雰囲気が甘くなってない? 昨日は一日中、それはそれは手厚くて、お熱い『看病』をしてあげてたんでしょうねぇ」
「……ただの体調不良だ。お前にも余計な手間をかけさせて悪かったな」
「もう、相変わらずお堅いんだから。手間だなんて誰も思ってないよ、仲間なんだから。それよりも、ほら。後ろ、見てみなよ」
千尋がいたずらっぽく片目を瞑り、顎でクイとその先を示した。 湊が促されるままに、ごく自然な動作を装って、真後ろの席――凪の席へと視線を移す。
そこには、すでにいつも通りの完璧な制服姿で、静かに椅子に腰掛けている凪の姿があった。 彼女の周りには、登校してきた女子のグループが集まり、「凪ちゃん、もう体調大丈夫?」「うん、すっかり良くなったよ、ありがとう」と、いつも通りの、どこか冷徹で、けれど完璧な「高嶺の花」のやり取りが繰り広げられている。
だが、湊が自分の席につき、千尋たちと会話を交わしたまさにその一瞬。 凪のあの大きな瞳が、女子たちの隙間を縫うようにして、ほんの一瞬だけ、真っ直ぐに湊の背中を射抜いた。その瞳の奥には、周囲の誰にも見せない、あの夕暮れの寝室で交わした濃厚な熱と、狂おしいほどの愛おしさが、確かに灯っていた。
その刹那の視線の交錯を、隣で見ていた千尋は見逃さなかった。彼女はさらに声を一段と潜め、クスクスとおかしそうに肩を揺らす。
「昨日、二人揃って綺麗に席が空いた時さ、涼と『これはもう、最高の答え合わせだね』って話してたんだから。でも、凪の元気な顔が見られて本当によかったよ。湊が一日中、付きっきりで守ってあげたおかげだね」
「……俺は何もしていない。あいつ自身の生命力が強かっただけだ」
「はいはい、そういうことにしておいてあげる。でも、今日の放課後は寄り道決定だからね? 凪の病み上がり祝いってことで。異論は一切認めませーん」
千尋は楽しそうにウィンクをしてみせると、自分の席へと満足そうに戻っていった。 直後、一時間目の始まりを告げる予鈴のチャイムが、容赦なく教室中に鳴り響く。その音を合図に、騒がしかったクラスメイトたちが一斉に自分の席へとつき始め、教室は緩やかに「授業」という名の日常の枠組みへと収まっていった。
湊が前を向き、カバンから数学の教科書とノートを取り出して机の上に広げる。 その背後から、衣類が小さく擦れる微かな音と、そして――あのマンションの寝室で、丸一日中、自分を優しく包み込んでいた、あの甘やかなシトラスの香りが、初夏の風に乗ってかすかに漂ってきた。
クラスの誰も、二人の本当の関係を知らない。自分たちがどれほど深く、お互いの存在に依存し、泥沼のように甘い境界線の中で生きているかなど、夢にも思っていない。この仮面と他人のふりで満ち満ちた、冷徹な教室という檻。
しかし、すぐ隣を見れば、すべてを察した上で平然と自分の盾になってくれる親友がいて、少し離れた席からは、二人の特別を温かく見守ってくれる仲間がいる。 そして何より、自分のすぐ真後ろには、あの過酷で濃厚な夜を共に乗り越えた少女が、確かに呼吸をして座っている。
その確かな繋がりの温かさと、背中に感じる愛おしい気配が、学校という退屈で無機質だった空間を、どこか愛おしく、そして誇らしい、自分たちだけの「特権の場所」へと変えていく。湊はそれを心地よく感じながら、静かに黒板へと視線を向けた。
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