表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
第三章連載中 元義妹は元義兄と暮らしたい〜他人になったはずの元義妹と再会したら学校でも猛アタックしてきて困ってます〜  作者:
2人の時間

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

37/84

木曜の午後

 学校での仲間たちの頼もしい奮闘など知る由もなく、マンションの寝室には、ただただ甘やかで静かな時間が波のように押し寄せていた。


 どれほどの時間が経っただろうか。

 張り詰めっぱなしだった緊張の糸が切れた湊が、凪の隣で深い眠りに落ちてから、世界はその速度をすっかり落としたようだった。外の世界では、木曜日の退屈な時間割が着々と進み、お昼休みの喧騒が過ぎ、放課後のチャイムが鳴り響いているはずだった。けれど、遮光カーテンで外光を遮られたこの寝室だけは、時間の概念そのものが剥ぎ取られたかのように、深い静寂に守られていた。


 時を刻む微かな機械音すら、毛足の長いじゅうたんに吸い込まれていくような静けさ。外界のあらゆる雑音から遮断されたその空間は、どこまでも昏く、そしてどこまでも二人の境界線を曖昧にさせていく。湊の浅い呼吸に合わせるように、凪もまた小さく胸を上下させ、二人の体温は掛け布団の内で一つの塊となって溶け合っていた。


 湊が次に意識を取り戻したのは、寝室の隙間から滑り込んでくる微かな光が、朝の爽やかな白から、夕方の穏やかなオレンジ色へと移り変わった頃だった。


「……ん……」


 泥のように深い眠りからゆっくりと意識が浮上してくる。一晩中続いていた頭の芯を鋭く刺すような痛みは、驚くほど綺麗に消え去っていた。丸一日、学校という檻から完全に切り離され、ただ隣にある彼女の温もりだけを感じて眠り続けたことで、彼自身の心身もまた、限界の淵から完全に救い上げられていたのだ。


 身体を動かそうとすると、胸元に心地よい重みを感じる。視線をわずかに落とせば、そこにはまだ微睡みの中にいる凪の、規則正しい寝息があった。彼女の体温が自分の肌にじわりと伝わってくる感覚に、湊はかつてないほどの深い充足感を覚えていた。


 まだ重い瞼をゆっくりと開けると、目の前に、じっとこちらを見つめている大きな瞳があった。いつの間にか目を覚ましていたらしい彼女は、瞬きすら惜しむように、じっと湊の顔を見つめていた。


「……あ、みーくん。目が覚めた?」


 至近距離から、鈴を転がすような愛らしい声が降ってくる。

 見上げると、凪がベッドの上にちょこんと膝を抱えて座り、湊の寝顔をずっと覗き込んでいたようだった。寝汗をかいたのか、彼女の長い黒髪は少ししっとりと濡れて肩に落ちている。だが、その肌の瑞々しさと、瞳に宿る確かな輝きを見ただけで、湊は彼女の身体を蝕んでいた高熱が、跡形もなく引き去ったことを本能的に理解した。


 昨日までのあの、世界が燃え尽きてしまうのではないかと思わせるほどの熱さはどこにもない。窓から差し込む夕暮れの光が、彼女の輪郭を優しく縁取り、その姿をまるで一枚の絵画のように美しく際立たせていた。


「……凪。お前、熱は……」


 まだ完全に開ききらない声で、湊が手を伸ばしようとする。すると凪はくすくすと嬉しそうに笑いながら、自ら身体を柔らかく屈めてきた。


「もう完全に平熱だよ? ほら」


 コツン、と軽い音がして、お互いの額がぴったりと押し当てられる。

 お互いの視線が、睫毛が触れ合うほどの至近距離で交錯した。鼻腔をくすぐるのは、昨夜の寝室に満ちていた重苦しい病の気配ではない、いつもの心地よくて愛おしい、凪自身のシトラスの香りと柔らかな体温だった。手のひらで彼女の首筋に触れてみても、驚くほど滑らかで、焼き付くような熱さは微塵も残っていない。


 額から伝わる確かな平熱の温度。それが何よりも雄弁に、彼女の復活を告げていた。湊の指先が、自然と凪の耳元の髪をそっと払う。その一連の動作のすべてが、二人にとっては長年培ってきた儀式のように自然だった。


「……本当だな。下がっている」


「うん! 昨日、みーくんがずっと、いっぱいぎゅってして、お薬も飲ませてくれたから。……それに、今日も一日中、こうして私の隣で一緒に寝てくれたでしょ? 最高の特効薬だよ」


 凪は額を重ねたまま、言葉の端々に愛おしさを滲ませて満面の笑みを浮かべた。その笑顔には、学校の教室で見せるような、他人を寄せ付けない冷徹な美少女の面影などどこにもない。ただただ、目の前の男のすべてを独占し、狂わせるためだけに存在する、この家の中だけの愛おしい恋人の顔だった。


 彼女の言葉は、湊の胸の奥の一番柔らかい部分を優しく突き刺す。学校での「他人のふり」という絶対のルールを遵守するために、どれほど張り詰めた日々を送っていたか。それを忘れさせてくれるこの瞬間こそが、彼にとっても唯一の救いだった。


 そのまま凪は、甘えるように湊の首筋に再び細い腕を絡め、その小さな身体の重みを丸ごと預けてくる。彼女が身じろぎするたび、その薬指にはめられた指輪が、夕暮れのオレンジ色の光を浴びて、二人の間でキラキラと眩しく輝いた。


 その青い輝きは、薄暗い部屋の中でまるで二人だけの夜空の星のように見えた。学校では決して見せることのできない、二人の秘められた絆の象徴。それが今、この光の中で静かに呼吸をしている。湊はそのサファイアの指輪がはめられた小さな手を、自分の大きな手で包み込み、そっと力を込めた。


「みーくん、お腹空いてない? 私、もうすっかり元気だから、何か作ろうか?」


 布団の中から顔を覗かせた凪が、湊の顔を見上げて弾んだ声で提案する。だが、湊は彼女の背中を優しく、けれど有無を言わせない力で引き剥がすと、上半身を起こしてベッドの端に腰掛けた。


「いや、お前はまだ病み上がりだ。大人しくしていろ。……夕飯は、俺が何か簡単なのもでも作る」


「じゃあ、キッチンでお手伝いする」


「拒否する。寝ていろ」


「やだ。絶対に離れないもん」


 凪はそう言って、起き上がろうとする湊の部屋着のシャツの裾をぎゅっと握りしめた。その頑固なまでの瞳に見つめられ、湊は小さく溜息を漏らしながらも、どこか心地よいものであることを自覚していた。


 彼女の指先に込められた力は、決して強くはないはずなのに、今の湊をその場に繋ぎ止めるには十分すぎるほどの重みを持っていた。普段なら理路整然と言い負かすはずの湊も、今日だけは彼女のその我が儘を全面的に受け入れたいという衝動に駆られていた。


「……分かった。じゃあ、座って見ていろ」

「うん、そうする。みーくんの後ろ姿、ずっと見てるね」


 凪は満足そうに微笑み、握りしめていたシャツの裾をそっと離した。その代わりに、ベッドの上で再び膝を抱え、期待に満ちた目で湊の背中を見つめ始める。


外の世界では、木曜日の日常が何事もないように流れていき、学校では千尋と涼が二人のために完璧な嘘の盾となって守ってくれた。その確かな安心感があるからこそ、二人は今、この瞬間だけは外の世界のすべてを忘れ、お互いの存在だけに没頭することができている。


 外の喧騒も、学校という名の制度も、ここには届かない。

 誰の干渉も受けない、外界から隔離されたこの狭い部屋の中だけは、完全に熱から解放された二人の、どこまでも甘くて穏やかな温度だけが、静かに、そして満ち足りたように満ち溢れていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ