共犯者(親友)
午前八時三十分。二人が深い眠りに就いたのとほぼ同時に、学校の教室では、いつも通りの退屈で騒がしい朝が始まろうとしていた。
窓の外からは、五月の爽やかな初夏の風に乗って、グラウンドで行われている運動部の朝練の掛け声や、登校してくる生徒たちの賑やかな話し声がかすかに響いてくる。どこにでもある、何の変哲もない、いつも通りの木曜日の朝。
だが、その教室の一角だけは、まるで切り取られたかのようにぽっかりとした空白が存在していた。
窓際の後方。浅井湊の席。そして、その真後ろにある市川凪の席。
クラスの誰もが認める、近寄り難いほどの完璧な秀才と、誰もが目を奪われる冷徹な美少女。学校という空間において、徹底して「ただの幼馴染」を演じ続けている二人の席が、示し合わせたように揃って空いている。
その光景を見て、いち早く状況を察した者がいた。
「……あはは、やっぱりね」
離れた自分の席から千尋が、誰もいない二つの机を見つめて、おかしそうに小さく笑った。
その表情には、焦りや不安など微塵もない。昨日、放課後のチャイムが鳴った瞬間に、文字通りすべてを放り出して教室を飛び出していった湊の姿が頭に焼き付いていたからだ。凪が急な高熱で倒れたと聞いた瞬間、あの鉄面皮の湊が見せた、見たこともないような必死な顔、余裕の欠片もなく引きつった表情。それを間近で目撃していた千尋からすれば、今日この席が二つとも空いていることは、容易に予想できていたことだった。
そこへ、湊のすぐ隣の席に座る涼が、いつものように飄々とした足取りでやってきた。自分の椅子を引き、カバンを机のフックにかけながら、不敵に口元を緩める。
「よお千尋。浅井の席もその後ろも、綺麗に二つとも空席だな。あの湊が学校をサボるとは考えにくい」
涼は湊の無人の机に視線を落とし、小さく肩をすくめた。どれだけ私生活で何があろうとも、学校という檻の中では完璧に「模範的な高校生」を演じることに執念を燃やしている親友だ。その湊が席を空けているという意味を、涼もまた瞬時に理解していた。
「昨日、浅井くんが凪の高熱を聞いて完全にテンパってたから、一晩中付きっきりで看病して自分も力尽きちゃったんでしょう。表面上冷静で秀才な湊が凪一人に振り回されてるの、なんか微笑ましいね」
千尋は楽しそうにクスクスと笑いながら、周囲のクラスメイトに聞こえない絶妙なボリュームで声を潜めた。
二人の声は、朝の教室の喧騒に見事に掻き消されていく。周囲では、別の女子グループが週末の予定について盛り上がっており、男子たちはスマホの画面を囲んでゲームの話に興じている。誰も、この窓際の特等席にいる二人の不在が、深い意味を持っているなどとは夢にも思っていない。
「女子の方には先手を打って話を合わせておいたよ。『凪、昨日かなり熱が高そうだったし、湊もなんか昨日、寝不足気味で体調悪そうだったよ』ってね。別々の理由で体調を崩したってことにしとけば、誰も疑わないでしょ」
「さすが千尋、仕事が早いな」
涼は感心したように笑いながら、手元の教科書をトントンと机の上で整えた。
「じゃあ俺は男子達が浅井の不在を気にしてたら『最近あいつ、塾の模試続きで全然寝てないって言ってましたから、過労でぶっ倒れたんじゃないすか?』ってカモフラージュしておく。これでクラスの連中も、ただの偶然だって思うだろ」
ドヤ顔でそう言った涼に対し、千尋は一瞬だけ呆れたような目を向け、それからすぐに真面目な顔になって遮った。
「湊は塾に行ってないけどね」
「あ……」
涼の手がピタリと止まる。言われてみれば、湊はその並外れた頭脳ゆえに塾など通っておらず、独学で完璧な成績を維持している男だった。下手にそんな嘘をつけば、事情をよく知る他の男子から「浅井って塾行ってんの?」と余計な詮索をされかねない。
「言っちゃう前でよかったよ」
千尋がホッとしたように胸をなでおろし、小さく悪戯っぽく笑う。
「すまん……助かった」
涼はバツが悪そうに頭を掻きながら、冷や汗を拭うジェスチャーをした。危うく良かれと思ったフォローが墓穴を掘るところだった。湊の完璧主義な一面を誰よりも知っている二人だからこそ、こうしたカモフラージュの一つひとつにも、細心の注意が必要だということを改めて実感する。
お互いを唯一無二の存在として、危うくも濃厚に寄り添い合う湊と凪。
学校という仮面の檻の中では、決して視線を交わすこともなく、言葉を交わすこともない二人。他人から見れば交わるはずのない平行線のような関係だが、その実、放課後になれば同じマンションの一室で、誰よりも深く、泥沼のように甘やかにお互いを求め合っている。
そんな二人の歪で、けれどあまりにも純粋な「特別」を認め、その上で日常のすぐ側で守ってやるのが、唯一の秘密の共有者――共犯者である自分たちの役割だと二人はよく分かっていた。
「あいつら、俺たちを信頼して、この『ボロ』を隠さずに休んでくれたんだ。頼りにされてるんだから、これくらいの手回しは安いもんだろ。今頃あの狭い聖域で、誰の目も気にせずゆっくり甘え合ってりゃいいさ」
涼は窓の外を見つめながら、少しだけ声を和らげた。親との関係性も冷え切り、世間のルールからも半分弾き出されるようにして、あの狭いマンションの一室でお互いだけを命綱にして生きている湊と凪。そんな二人が、今日という一日だけは学校の義務からも解放されているのならば友人としてこれ以上のことはない。
「湊のことだから、自分の身体のことなんて二の次で看病して、死にそうなクマ作って戻ってくるに決まってるもん。明日の金曜日、凪が元気な顔で登校してきたら、張り詰めっぱなしの湊の肩の力を抜いてあげるためにも、思いっ切り茶化して恥ずかしがらせてあげなさいよね」
千尋は、大切な親友たちの幸福を確信しながら、満足そうに微笑んだ。明日、きっと二人はいつも通りの「ただの幼馴染」としてこの教室に戻ってくるだろう。その時、一晩中寝ずに看病して限界を迎えているであろう湊が、どんな顔をして凪の前に座るのか、今から楽しみで仕方がなかった。
千尋は、楽しそうにステップを踏むような軽い足取りで自分の席へと戻っていった。
隣の席の涼も、いつも通りの「日常」を平然と維持するための盾となり、何事もないようにノートを広げて授業の準備を始める。
一時間目の始まりを告げるチャイムが鳴り響き、担任の先生が教室に入ってくる。出席を取る先生の目が一瞬だけ窓際の後方に向けられたが、千尋と涼があらかじめ水面下で回しておいたスマートなフォローのおかげで、二人の不在はクラスの誰にも勘繰られることなく、完璧な「偶然の体調不良」として、いつもの退屈な日常の景色の中に溶け込んでいった。





