治りかけの1日
凪の熱は、一時39度近くまで跳ね上がっていた。
ハァ、ハァ、と、小さく薄い胸を上下させながら、凪は苦しげな呼吸を繰り返す。その頬は熟しすぎた果実のように赤く染まり、長い黒髪が汗で額や首筋に張り付いていた。意識は半分混濁しているようで、時折、何かに怯えるようにビクンと身体を震わせる。
「……みな、と……おいて、かないで……」
「ここにいる。どこにも行かない」
湊は一晩中、ベッドの脇につけた椅子から一歩も動かなかった。氷水の冷たさで指先の感覚が麻痺するのも構わず、何度も何度もタオルを絞っては彼女の額を替え、少しでも呼吸が楽になるようにと制服のネクタイも外さぬまま、凪の小さな身体を布団ごと強く抱きしめ続けた。
スプーンで少しずつスポーツドリンクを唇に流し込むたび、凪の薬指にはめられた指輪が、寝室の常夜灯の下で鈍く、けれど確かに自己主張するように輝いていた。学校では決して許されない、二人の「一線を越えた証」。それが今、病床の彼女の手元にあることが、どこか狂おしいほどの現実味を持って湊の胸に迫る。
(学校休んで看病していれば…)
そんな無意味な後悔が、湊の思考を何度も真っ黒に塗りつぶした。彼女がこうして苦しんでいる時に、自分は数時間もの間、別の場所にいたのだ。その事実が、湊を激しい罪悪感と、彼女を二度と手放したくないという強烈な執着で縛り付けていた。
そして、長い長い夜が明けた、木曜日の朝。
「……ん……みー、くん……?」
カーテンの隙間から、五月の爽やかで、けれど容赦のない朝光が静かに差し込んでくる頃。
掠れた、しかし昨日よりはずっとはっきりとした声が、静まり返った寝室に響いた。
椅子の背もたれに身体を預け、凪の手を握ったまま浅い眠りに落ちていた湊は、その微かな指先の動きと声で、弾かれたように意識を覚醒させた。
「凪、気がついたか」
すぐに椅子から身を乗り出し、彼女の額にそっと手のひらを当てる。
張り付くような嫌な汗は引き、手のひらから伝わってきたのは、昨日の焼き付くような熱さではない、じんわりとした平熱の温かさだった。ゼーゼーと喘いでいた呼吸も、今は驚くほど穏やかな規則正しいものに戻っている。
「……熱、すこし下がったみたい……。身体も、昨日よりずっと軽い、よ……」
凪はまだ少し潤んだ瞳を細めながらも、湊を安心させるように、優しく、弱々しく微笑んでみせた。
その笑顔を見た瞬間、湊の胸の奥でせき止められていた重たい塊が、一気に崩れ落ちるような感覚があった。
「……はぁ……。そうか。本当によかった……」
湊の口から、魂が抜けるような本気の安堵のため息が漏れる。
だが、安堵が訪れたのと同時に、一晩中張り詰めっぱなしだった緊張の糸がぷつりと切れた。猛烈な寝不足と疲労がどっと押し寄せ、湊の視界がわずかにぐらりと揺れる。
「みーくん、ずっと起きててくれたの? ……目の下、すごいクマ……」
凪が心配そうに眉をひそめ、布団から細い腕を伸ばして湊の頬に触れた。
自分のために一晩中付きっきりで看病してくれた湊の疲弊ぶりは、誰の目から見ても明らかだった。いつもなら寸分の隙もないはずの鉄面皮は完全に崩れ、肌は青白く、その表情には隠しきれない疲労が刻まれている。
彼の限界を察した凪が「もう起きられるから、みーくんは少し休んで?」と言いかけるより早く、湊は自分の顔を片手で覆いながら、低く、掠れた声で静かに告げた。
「……凪、今日も学校は休め。……一応、俺も今日は休む」
「……うん。そうだね。みーくん、そんなになるまで頑張っちゃうんだから……ごめんね……」
凪は驚くこともなく、どこか申し訳なさそうに、けれど自分をそこまで求めて看病してくれた湊への深い愛おしさを滲ませて、柔らかく微笑んだ。
いつもなら、周囲の目を欺くために「学校では完璧な他人のフリ」を意地でも突き通そうとする湊が、自ら進んで学校を欠席すると口にしている。本当は、一晩中看病を続けて心身ともに限界を迎えている湊自身が、凪のいないあの冷え切った教室へ行く気力を、完全に失っていた。水曜日のあの一日で、彼女の後ろ姿がない空間の寒さを、嫌というほど思い知らされたからだ。
「千尋や涼くんには、私から……じゃなくて、みーくんから連絡しておく?」
「ああ、連絡はアプリで済ませておく。……あの二人なら、俺たちが揃って休めば事情を察して、なにかあっても上手くカモフラージュしてくれるはずだ。……あいつらを信頼して、今日は甘えさせてもらう」
湊は重い身体を動かしてスマホを操作し、二人の欠席届を淡々と提出した。
全てを知り、その上で自分たちの危うい二面性を面白がりながらも見守ってくれている千尋と涼という「仲間」がいるからこそ、湊は初めて、学校という嘘の檻を放り出して、看病に専念する(そして自分も休む)という選択をすることができたのだ。
「……みーくん。じゃあ、ベッド入って? 一緒にねんねしよ」
凪が布団の中に小さな隙間を作り、トントンと隣のシーツを叩く。
いつもなら「馬鹿なことを言うな」「風邪が移る」と冷たく突き放すところだが、今の湊にはそれを拒むだけの理性の余力も、プライドも残っていなかった。
「……今日だけだぞ」
湊は制服に着替える気力もないまま、部屋着の姿で、凪が手招きするベッドへと身体を沈めた。
瞬間、凪の細い腕が待ってましたとばかりに湊の首筋に絡みつき、すっかり熱の引いた、けれど心地よい体温と、シトラスの甘い香りが湊の五感を優しく包み込む。
「看病してくれて、ありがとう、みーくん……。大好きだよ……」
耳元で囁かれる愛おしげな声を聞きながら、湊は凪の細い腰を強く抱き寄せ、その胸元に彼女の顔を埋めさせた。
「……しっかり休め」
低く心地よい、二人だけの聖域の温度。その中へ溶けていくように、湊は深い眠りへと落ちていった。
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