水曜日の高熱
週の真ん中、水曜日。
火曜日までは何事もなくお弁当を突っつき合っていたというのに、日常のバランスは朝一瞬にして崩れた。
いつものように正確に目を覚ました湊は、隣で眠る凪の呼吸が、明らかに異様な熱を帯びていることに気がついた。
「……う、ん……っ……」
小さな呻き声は、浅く苦しげな吐息に遮られて途切れ途切れになっている。布団を鼻先まで固く引き込み、凪は小刻みに身を震わせていた。驚いて額に手を当てると、手のひらを突き抜けてくるような、はっきりとした高熱の質量が伝わってくる。
「凪、熱あるな」
「……み、なと……? ごめ、なさ……身体が、うごかなくて……」
潤んだ瞳から、ぽろりと涙が零れ落ちる。それは寂しさではなく、急激な高熱に身体がついていかない辛さのせいだった。2人の関係に変化があってから凪の心身は自覚なしに限界を迎えていたのかもしれない。
「謝るな。今日は絶対に休め。欠席届は俺のスマホからアプリで出しておく……」
湊が淡々と告げると、凪は熱に浮かされた頭で、ただ小さく頷いた。
「……みーくんは、がっこういってきて、いいよ……」
「そんな状態の凪を置いていけないよ」
このマンションの一室は二人にとっての絶対的な聖域であり、そして今は、湊だけが彼女を看病できる唯一の存在だった。
「……だいじょうぶ……くすりもあるから……。じゅぎょう、うけてきて、あとでノートみせて……」
「……本当に大丈夫なのか?」
「……うん。でも……みーくん、早く、帰ってきてね……」
「……わかった」
熱のせいで少し幼児退行したような掠れ声に応えるように、湊は彼女の熱い額を優しく撫でた。いつもなら表情を崩さない湊自身、この時ばかりは焦りで胸が潰れそうになっていた。
教室に入ると、後ろの席がぽっかりと空いていた。
一時間目のチャイムが鳴る直前、千尋が、心配そうに眉をひそめて振り返った。
「ねえ、今日、凪は? もしかして遅刻?」
「……風邪だ。今朝急に熱が出て、今日は休ませた」
「えっ、熱!? 大丈夫なの!?」
千尋は目を見開き、本気で驚いて声を上げた。昨日まで元気だった親友の急変に、純粋な心配が表情を支配する。「私、放課後お見舞いに行こうか——」
そこまで言いかけて、千尋はピタリと言葉を止めた。
目の前にいる湊の顔が、見たこともないほど暗く、余裕をなくして強張っていたからだ。ペンを握る指先がかすかに震え、その瞳には焦燥感がこれでもかと滲み出ている。
(……あ、そうか。一人じゃないじゃん。この人がついてるんだから)
千尋はすぐに状況を察し、湊があまりにも張り詰めすぎているのを見て、彼の肩の力を抜いてやろうと、あえて意地悪く口元を緩めた。
「——なーんてね。あんたがそんな死にそうな顔して心配してるんだから、私が心配するまでもないか。まーた浅井くんが夜にハッスルしすぎたんじゃないの〜? って言いたいところだけどさ。あの子、月曜日からずっと知恵熱出しそうな顔してたし、キャパオーバーしちゃったのね」
「……」
「冗談だって。ほら、そんな怖い顔してないで、放課後は寄り道しないでダッシュでお姫様のところに帰ってあげなさいよね」
千尋は楽しそうにウインクをして前を向いた。その冗談混じりの気遣いに、湊は自分がどれほど取り乱していたかを自覚し、小さく息を吐いた。
「よお、湊。お前の後ろに誰もいないと、教室の温度が三度くらい下がって見えるぜ」
休み時間、涼がふらりとやってきて、凪の椅子に腰掛けた。やはり最初は「市川さん、大丈夫か? 千尋から高熱って聞いたけど」と真面目な顔で尋ねてきたが、湊が「座るな。そこは凪の席だ」といつも以上の威圧感でピリピリと拒絶するのを見て、涼は苦笑を漏らした。
「おっと、相変わらずの独占欲……って、お前マジで余裕ねえな。他の人に疑われたら答え合わせが簡単すぎるんだよ」
涼は低く笑い、湊のガチガチに強張った肩をぽんと叩いて、気を紛らわせるように軽口を叩く。
「まあ、あいつにはお前しかいないし、お前にもあいつしかいないんだ。放課後はダッシュで帰れよ」
「……ありがとう」
湊は、親友たちの不器用な優しさをしっかりと受け止め、短く、けれど明確な感謝を返した。彼らが仲間として見守ってくれているからこそ、今の自分は辛うじて学校に踏み止まっていられるのだ。
放課後、チャイムの余緯が残る教室から、湊は誰よりも早く飛び出した。
背後から「行ってまえ」とでも言うような涼と千尋の視線を感じながら、駅への道を急ぐ。
マンションのドアを開け、鍵をかける。
カバンをリビングに放り出し、寝室のドアを静かに開けると、室内には朝よりもさらに重苦しい熱気が満ちていた。
凪の容態は、良くなるどころか明らかに悪化していた。頬は燃えるように赤く染まり、呼吸はさらに荒くなって、小さな身体がゼーゼーと苦しげに弾んでいる。
「……凪。戻ったぞ」
枕元に急いで膝をつき、冷たい手を彼女の頬に当てると、凪はうっとりとしたように、けれど力なくその手に擦り寄ってきた。
「……みなと……おかえ、り……。からだ、いたいの……あついよぉ……」
「ああ、熱いな。朝より上がってる。今、冷たいタオルを持ってくるからな」
立ち上がろうとする湊の制服の袖を、凪は弱々しい力でぎゅっと握りしめた。その薬指には、家の中でしか許されない、あのサファイアの指輪がはめられている。熱のせいで意識が朦朧とする中でも、指輪だけは外さずに待っていたのだ。
「……ねえ、湊。学校で、千尋たちに……また、からかわれた?」
「……ああ。俺があまりにも取り乱していたからな。宮前さんには俺のせいで熱が出たんじゃないかと疑われたし、高橋も、さっさと帰れと笑っていた」
「ふふ、やっぱり……みーくん、私のこと、いっぱい心配してくれたんだ……」
熱で潤んだ瞳をさらに細めて、凪は嬉しそうに、そして少し恥ずかしそうに毛布に顔を埋めた。
自分を誰よりも愛してくれる湊がいて、その二人の関係を、大切な友人たちが温かく茶化し、守ってくれている。その事実が、親の愛を知らない凪の心を、病床にあってもじんわりと満たしていく。
「……っ、湊、ぎゅって、して……。冷たいタオルより、湊がいい……」
甘えるように腕を伸ばしてくる凪を受け止め、湊は制服のネクタイを緩めながら、彼女の小さな身体を布団ごと抱きしめた。
悪化していく熱を帯びた彼女の吐息が、湊の首筋を焦がす。
「学校で、お前の席が空いているのを見るのが、どれだけ嫌だったか、お前には分からないだろ。……早く良くなれ、凪。お前が後ろにいないと、調子が狂う」
湊の低い、独占欲の滲んだ声に、凪は熱い吐息を漏らしながら、その胸に深く顔を埋めた。
水曜日の夕暮れ。
外の世界では、日常が淡々と動いている。
だが、信頼できる二人の仲間に見守られ、誰の干渉も受けないこの狭い部屋の中だけは、二人の高まる熱だけが支配する、世界で一番甘くて安全な聖域だった。
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