暖かさを求めて
月曜日のあの張り詰めた緊張感から一夜明けた、火曜日の朝。
設定されたアラームが鳴るより三分早く、湊は静かに目を覚ました。カーテンの隙間から差し込む朝光は、昨日と同じように五月の爽やかな色をしている。だが、視界に映る光景は、一年前の孤独な朝とは根底から異なっていた。
腕の中に、確かな重みと、心地よい体温がある。
凪は湊の胸元に顔を埋めるようにして、規則正しい小さな寝息を立てていた。長い黒髪がベッドのシーツに広がり、シトラスの混じった彼女特有の甘い香りが、目覚めたばかりの寝室を満たしている。
「……凪。朝だぞ」
湊が低く囁きながら彼女の肩を優しく揺らすと、凪は「ん……」と身悶えし、さらに湊の身体にしがみついてきた。長い睫毛がかすかに震え、ゆっくりと開かれた瞳が、潤んだ熱を帯びて湊を捉える。
「……おはよ、湊。……もう、起きなきゃダメ?」
「ダメだ。昨日、千尋たちにあれだけ釘を刺されたんだ。今日遅刻なんかしたら、それこそ学校でどんな顔をされるか分からない」
昨日——月曜日の、あの薄氷を踏むような学校生活。自分たちの関係を察した上で「ボロを出さないでね」と言ってくれた千尋や、「一線を越えた、いい面構えだ」と低く笑った涼の顔を思い出し、湊は今一度、自らの理性を引き締める。彼らが知っているからこそ、逆に学校での「他人のフリ」は完璧でなければならなかった。
ベッドから抜け出しようとする湊の腕を、凪は名残惜しそうに引き止めた。
「じゃあ……起きてあげる代わりに、おはよう、のやつ、して?」
上目遣いで、少しだけ悪戯っぽく微笑む凪。その表情には、家の中でしか見せない「男を狂わせる恋人」の顔があった。
湊は小さくため息をつき、諦めたように身体を屈めて、彼女の柔らかい唇にそっと自身のそれを重ねた。ほんの短い、けれど深い熱を確かめ合うような口づけ。
「……これで満足か。ほら、早く着替えろ」
「うんっ、起きます!」
現金なもので、凪は一気に満面の笑みを浮かべてベッドから跳ね起きた。
家の中という、世界で唯一の聖域。ここでは、二人はどんなに溺れ合っても許される。しかし、ひとたびあの重いドアを開ければ、そこからは再び「ただの幼馴染」という仮面を被った、長い長い演劇が始まるのだ。
二人は昨日と同じように、十分の時差を置いてマンションを出た。
駅までの道のり、湊はポケットの中で、凪が引き出しの奥に仕舞い込んだあの指輪の、鈍い輝きを指先でなぞるような錯覚を覚えていた。
「おーい、浅井。昨日の数学の小テスト、お前また満点だってな。少しは手加減しろよ」
昼休み。教室の自分の席で購買のパンを齧っていると、涼が弁当箱を片手に、湊の机の前に腰掛けた。相変わらず飄々とした態度だが、その目はどこか楽しげに湊を観察している。
「普通に解けば誰でも取れる点数だ。お前が勉強してないだけだろ」
「手厳しいねぇ。まあ、お前がいつもの調子に戻って安心したよ。昨日の朝はさ、男の脱皮を見せつけられた気分だったからな。……で、昨日の放課後はちゃんと真っ直ぐ帰って、お姫様を可愛がってやったのか?」
周囲に聞こえないような低い声で、涼がニヤリと笑いながら突っ込んでくる。すべてを知っている「共犯者」だからこその、容赦のないからかいだった。
湊は無表情を貫いたまま、コロッケパンを口に運んだ。
「くだらない分析をする暇があるなら、次の現国の予習でもしておけ」
「へいへい。まあ、お前がその『鉄面皮』を崩さないお陰で、クラスの奴らにはバレずに済んでるんだから、大したもんだよ。俺は変わらず応援してやるからさ」
涼はそう言って、小さくウィンクをしてみせた。深く追及はしないが、すべてを肯定して見守ってくれる。それが涼なりの気遣いであり、この危うい二重生活を支えるセーフティネットだった。
一方、教室の窓際では、凪と千尋が机を突き合わせてお弁当を広げていた。
湊は、涼と会話を交わしながらも、視界の端で静かに凪の様子を伺う。
「ねえ凪、今日のお弁当、なんかいつもと雰囲気違くない? その卵焼き、形は綺麗だけど、ちょっと焼き色強くない?」
「えっ!? あ、あはは……ちょっと火加減間違えちゃって。味は大丈夫なんだけどね」
凪が慌ててお弁当箱を隠すようにして笑う。
実際、その卵焼きを作ったのは湊だ。今朝、慣れない手つきで凪のために焼いたものが、彼女のお弁当箱に収まっている。
「ふーん……」千尋は声を一段と潜め、凪にだけ聞こえるトーンで意地悪く微笑んだ。「それ、絶対に浅井くんでしょ。あんた、昨日あんなにテンパって弁明してたのに、翌日にはもう胃袋掴まれて惚気てんの? ボロを出さないでって言ったの、もう忘れたわけ?」
「ち、千尋っ……! 声が大きいよぉ……っ」
顔を真っ赤にしてお弁当箱の陰に隠れる凪。
すべてを知っている千尋だからこその、呆れ混じりのからかいだった。必死に動揺を隠そうとする凪の姿を見ながら、湊は心の中で(……危なっかしいな、本当に)と呟く。
しかし、そんなハラハラするような状況すらも、どこか心地よい。クラスの他の誰もが二人の本当の関係を知らない中で、信頼できる友人たちだけに守られているこの空気。他人のフリをする息苦しさを、それが極上のスパイスへと変えていた。
放課後。夕暮れの光が教室をオレンジ色に染める頃、二人はまた、時間差を置いてあのマンションへと帰ってきた。
カチャリ、と鍵を開け、重いドアを閉める。
「ただいま」という声を重ねるのと同時に、二人の身体は自然と引き寄せ合っていた。
狭い玄関で、カバンを床に落とす音だけが響く。
湊は凪の細い腰を抱き寄せ、凪は湊の首に腕を絡めて、貪るように唇を重ねた。学校での数時間分の「飢え」を埋めるような、激しく、切ないキス。
「……ん、は……。湊、おかえり……っ」
「ああ。……今日も、よく我慢したな、凪」
制服のブラウス越しに伝わる彼女の体温が、学校という檻から二人を完全に解放していく。
凪は、湊の胸に顔を埋めたまま、嬉しそうに、そして少しだけ甘えた声をあげた。
「あのね、今日の千尋のツッコミ、本当に心臓が止まるかと思ったんだよ? 卵焼きが湊の手作りだって、完全に秒で見抜かれちゃって……」
「見てた。お前、動揺しすぎだ。千尋たちが分かってくれてるからいいものの、他の奴の前であれをやったら一発でアウトだぞ」
「もう、酷いなぁ……。でもね、学校で他人のふりをしてる時も、ずっとお腹の中に湊の卵焼きがあるんだって思ったら……なんだか、すごくドキドキして、幸せだったの」
そう言って凪は微笑む。
「……夕飯、何にする?」
湊が凪の髪を優しく撫でながら尋ねると、凪は指輪を愛おしそうに見つめながら答えた。
「温かいスープが飲みたいなbox。具沢山のやつ。二人で、ゆっくり作ろ?」
「よし、食材もあるね」
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