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デート②

 ランチを終え、店を後にした二人の周りには、先ほどよりも一層柔らかな空気が流れていた。

 湊が放った「思い知らせてやる」という不器用な宣言。それは凪にとって、どんな甘い愛の言葉よりも深く、心に楔を打ち込んだようだった。


「……ねえ、みーくん。次はあっちのフロアに行ってもいい?」


 凪が湊の腕を引き、今度は大きな本屋が入ったフロアへと向かう。

 華やかな服やアクセサリーもいいが、湊は凪が「本」に興味を示したことが少し意外だった。


「本か? 珍しいな」


「うん。……私ね、五年前のあの日、みーくんの部屋に置いてきちゃった本があるの。物語の最後を読めないまま、ずっと気になってて」


 二人は静寂が支配する書架の間を歩く。

 凪は慣れた手つきで背表紙を追い、一冊の文庫本を手に取った。それは、湊も記憶にある、少し切ないファンタジー小説だった。


「これだ……。あの日、続きを読もうとしたら、パパたちの荷造りが始まっちゃって……」


 凪はその本を大切そうに抱きしめる。

 湊は悟った。彼女が今日「ショッピング」に行きたがったのは、単に新しい物が欲しかったからではない。五年前、理不尽に中断させられた「日常」の断片を、一つずつ自分の手で拾い集め、完結させたかったのだ。


「……買っておけよ。今夜、最後まで読めるように」


「……うん。ありがとう、みーくん」


 湊はレジへ向かう凪の後ろ姿を見ながら、脳内のリストを更新した。

 【プレゼントのヒント:形に残る物だけでなく、失われた時間を取り戻すための何か】。





 本を買い終えた後も、二人は街を彷徨うように歩き続けた。

 目的のない散策。かつての自分たちには許されなかった、贅沢な時間の浪費。

 

 時折、街ゆくカップルが仲睦まじく歩く姿とすれ違うたび、湊は凪を庇うように内側へ寄せた。学校という檻の中では、視線を交わすことさえ命懸けだった。けれど、この見知らぬ街の雑踏の中では、誰も自分たちの「本当の関係」など知り得ない。その匿名の自由が、湊の心に潜んでいた独占欲を静かに煽った。


「ねえ、みーくん。見て、あのアイスクリーム屋さん、すごく並んでる!」

「並ぶのは嫌いじゃなかったか?」

「ううん。今日は、待ってる時間も全部みーくんと一緒にいられるから、全然平気」


 行列に並んでいる間、凪は湊の指の節を一つ一つなぞるように触れていた。

 その感触は羽のように軽かったが、湊の喉の奥を熱くさせるには十分だった。

 

「……凪、来週のことなんだが」

「ん?」

「……いや、やっぱりいい。当日まで楽しみにしておけ」

「えー! 気になる!」

「凪の想像を超えてやるよ」


 湊が不敵に笑うと、凪は「もう、みーくんの意地悪」と言いながらも、その表情は期待に満ち溢れていた。






 ショッピングの終盤、二人は駅ビルの屋上庭園にいた。

 夕暮れが近づき、空は燃えるような茜色から、深い琥珀色へとグラデーションを描いている。

 風は少し冷たくなってきたが、湊の隣にいる凪の体温が、それを相殺して余りある。


 歩き疲れたのか、凪は湊の肩に体重を預け、眼下に広がる街の灯りを見つめていた。家路を急ぐ車、点灯し始めた街灯。そこには数えきれないほどの「普通の幸せ」が溢れている。


「……ねえ、みーくん。今日一日、私の『今の好き』をいっぱい教えたつもりだけど……ちゃんと伝わった?」


 凪が上目遣いで湊を覗き込む。その瞳には、夕陽の光が反射して、先ほど見たサファイアよりもずっと深い輝きが宿っていた。


「……ああ。十二分にな。……というか、お前、わざとやってただろ。俺が何を考えてるか分かってて」


 湊が苦笑して答えると、凪は「さあ、どうかな?」と茶目っ気たっぷりに首を傾げた。


「でも、これだけは覚えておいてね。私が一番欲しくて、一番大事にしたいのは……洋服でもご飯でも本でもなくて、こうして私の隣で、私のために悩んでくれる『みーくんの時間』そのものなんだよ」


 凪の細い指が、湊の手の甲をなぞる。

 その言葉は、湊の胸の奥底にある「兄としての義務感」を、優しく、けれど決定的に溶かしていった。

 自分が彼女に与えたいと思っているものは、彼女が自分に与えてくれているものと同じなのだ。


「……ああ。……お前の時間は、全部俺がもらう。来週からも、その先もずっとだ」


 湊は、凪の肩を強く抱き寄せた。

 周囲にはまだ人がいたが、今の二人には関係なかった。ただの義理の兄妹ではなく、世界でたった一組の、運命を共にすると決めた男女として、そこに立っていた。






 帰りの電車の中。

 満員に近い車両で、湊は凪を背中で守るようにドアの脇に立った。

 心地よい疲労感に包まれ、凪は湊の肩で船を漕いでいた。

 湊は、膝の上に置かれた凪の買い物袋――本が入った袋――を見つめながら、静かに来週の段取りを固めていた。


 サファイアの指輪は、明日、学校の帰りに一人で買いに行こう。

 そして誕生日の夜。

 二人きりのこの部屋で、彼女がこの世に生まれてきてくれた奇跡を祝い、この「元義兄妹」という不自由な名前を、別の名前に書き換える。


 (……凪。来週の今頃、俺たちはどうなっているんだろうな)


 電車が自分たちの最寄り駅に滑り込む。

 眠たげな凪を支えながらホームに降り立つと、そこにはいつもの、けれどどこか新しく見える風景が広がっていた。


 駅に着き、いつもの帰り道を歩く。

 街灯の光が、二人の影を一つに重ねては離す。

 マンションのエレベーターが閉まり、二人きりになった瞬間、凪が湊のコートの裾を掴んだ。


「……みーくん。今日、本当に楽しかった。……大好きだよ」


 寝ぼけ眼で、けれど真っ直ぐに告げられた言葉。

 それは「妹」の甘えではなく、一人の「女」の告白だった。

 湊は何も答えず、ただ彼女の額に優しく口づけを落とした。それが、今の彼にできる精一杯の「前祝い」だった。


 部屋に戻ると、凪は買ってきたばかりの本を枕元に置き、幸せそうな寝息を立てて眠りについた。

 湊は一人、リビングでカレンダーを見つめる。

 

 こうして、幸福に満ちた日曜日のデートは幕を閉じた。

 最強の共犯者たちに守られ、一週間の平穏を勝ち取った二人の前には、いよいよ、運命の「土曜日」が待ち構えている。


 湊は窓の外を見つめ、静かに呟いた。

「……待ってろよ、凪。最高の夜にしてやるから」


 カーテンの隙間から差し込む月光が、来週への期待を静かに照らしていた。


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