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新たな日常



 月曜日の朝。教室を包む喧騒は、昨日までの湊が知っていたものとは明らかに違って聞こえた。

 机を叩く音、誰かの笑い声、遠くのグラウンドから響くホイッスルの音。そのすべてが、透明な膜を隔てた異世界のノイズのように鼓膜を滑っていく。


 湊はいつものように、一番前の席で参考書を広げていた。だが、活字を目で追う端から、意識は背後に向かって吸い寄せられる。

 斜め後ろの席。そこには、昨日の出来事がまるで幻だったかのように、涼と談笑する凪がいる。


「おー、凪ちゃん、その筆箱新しくした? なんか大人っぽくていいじゃん」

「あ、気づいた? 千尋に選んでもらったんだよ。涼くん、センスいい~」


 涼の明るい声。それに答える凪の、どこか弾んだ響き。

 二人のやり取りは、クラスの誰もが疑わない「人気者の男子と、彼に憧れられる美少女」のそれだった。だが、湊だけは知っている。その和やかな空気の裏側に、昨日の涙と、胸ぐらを掴み合った告白と、そして「共犯」という名の消えない刻印があることを。





 昼休み、湊は逃げるように屋上へと続く階段の踊り場に向かった。一人で思考を整理したかった。だが、そこには先客がいた。


「よお、湊。待ち伏せ成功」


 パンを頬張りながら、涼が壁に背を預けて立っていた。


「……涼」

「そんな警戒すんなって。誰も見てねえよ。……なあ、さっきの数学、お前でも苦戦してただろ? あんな難問、凪ちゃんが解けるわけねえのに、必死にノート取ってたぜ。お前に追いつきたいんだろうな」


 涼は笑いながら、湊の隣に並んだ。その距離感は、一昨日までと何も変わらない。けれど、彼が口にする「凪」という名前には、もはや以前のような所有欲や執着は含まれていなかった。


「……悪いな。お前に、あんな重い荷物を背負わせて」

「荷物じゃねえよ。これは『特権』だ」


 涼は飲みかけの紙パックを握りつぶし、真剣な目で湊を見た。


「昨日、お前の部屋で凪ちゃんの笑顔を見てさ。……あ、こいつ、俺じゃ絶対にこうは笑わせられないんだなって、ストンと腑に落ちたんだ。だからさ、もう気にするな。俺は俺で、お前らの『正しさ』を守るために動いてやる」


 涼の言葉は、湊が考えていた以上の「防壁」だった。親友という名の、最も信頼できる盾。


「いいか、湊。学校中が凪ちゃんに注目してる。誰かが変な噂立てないように、俺がフロントマンになって、適当に煙に巻いてやるよ。お前は一番前で、今まで通りスカしてろ。それが一番怪しまれない」





 一方、女子のグループ内でも、千尋がその「盾」となって機能していた。

 放課後の図書室。静寂が支配する空間で、千尋と凪は返却本を棚に戻しながら、小声で言葉を交わしていた。


「凪。最近、あんまり湊の方ばっかり見ないこと。あんたの視線、熱すぎて焦げちゃいそうよ」

「えっ、嘘、そんなに出てる……?」

「出まくり。さっきも数学の時間、湊の後頭部を慈しむように見つめてたでしょ。……周りの子たちが『凪ちゃん、湊くんに勉強教えてもらってるから尊敬してるんだね』って解釈してくれてるうちに、もう少し自制しなさい」


 千尋は呆れたように肩をすくめながらも、凪の耳元で「でも、昨日の夜は楽しかったんでしょ?」と意地悪く囁く。凪は顔を真っ赤にしながら、小さな声で「……秘密だよ」と答えた。


「ま、安心なさい。女子の噂話の芽は、私が全部摘んでおいてあげるから。あんたたちは、その『家』という聖域を守ることに専念して」


「千尋……ありがとう。本当に」


 凪が心から感謝を口にすると、千尋は「親友の特権よ」と短く返し、次の棚へと歩いていった。





 そんな二人の「防波堤」に守られながら、一週間が過ぎていった。

 

 登校中は他人のふり。教室では距離を置いた優等生同士。

 けれど、放課後の帰り道、人混みを避けた駅の裏側で、あるいはマンションのエレベーターの中で、二人は束の間の安らぎを得る。


 涼は約束通り、クラスメイトから「凪ちゃんとどうなの?」と聞かれるたびに、「あー、俺、振られちゃったかも。あいつ、勉強にしか興味ないみたいだぜ」と、自虐ネタを交えて湊への疑念を逸らし続けてくれた。千尋もまた、凪を放課後のティータイムに誘うふりをして、湊が先に帰宅する時間を稼ぐなど、完璧なサポートを見せた。


 水曜日の夜、湊の部屋。

 

「……みーくん。今日、涼くんがクラスで『湊はガリ勉だから、女子のことなんて石ころだと思ってる』って吹聴してたよ」

「……あいつ、極端なんだよ」


 湊は苦笑しながら、買ってきたイチゴのアイスを凪に差し出した。

 二人は今、かつてないほど「自由」だった。

 隠し事が、もはや「孤独」ではなく、四人で共有する「結束」に変わったからだ。

 

 嘘をつくたびに削られていた湊の精神は、涼の「応援」という予想外の救いによって、奇妙な安定を得ていた。自分を肯定してくれる親友。凪を理解してくれる親友。

 その温かな眼差しに見守られながら過ごす一週間は、これまでの嵐のような日々が嘘のように、穏やかに過ぎていった。


 金曜日の放課後、校門を出る湊の背中を、涼が軽く叩いた。


「週末、羽目外しすぎるなよ。……何かあったら、すぐ俺に言え」

「……ああ。お前もな、涼」


 短いやり取り。けれどそこには、血の通った「男の約束」があった。

 

 一番前の席で、誰にも邪魔されない世界を望んだ少年は、今、最強の共犯者たちに囲まれ、凪と共に歩む道のりの険しさを、少しだけ愛おしく感じ始めていた。


 雨上がりの一週間。

 二人の秘密は、より深く、より強固な、誰にも暴けない「城」へと形を変えていく。


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