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親友の怒り


 気まずい沈黙の朝食を終え、凪が着替えのために寝室へ引っ込んだ直後だった。

 不意に鳴り響いたインターホンの音に、湊の肩がびくりと跳ねた。モニターを確認すると、そこには傘を畳み、所在なげに立つ涼の姿があった。


「……涼」


 湊は息を呑み、迷った末にドアを開けた。嘘を重ねる限界を感じていたのかもしれない。だが、あまりに最悪のタイミングだった。


「よお、湊。……昨日の電話、やっぱり気になってさ。住所、千尋から無理やり聞き出したんだ。……お前、何か隠して――」


 涼の言葉が、唐突に止まった。

 湊の背後、着替えを終えてリビングに出てきた凪と、正面から視線がぶつかったからだ。凪は湊の部屋の予備のタオルで髪を拭いながら、不思議そうに玄関を覗き込んでいた。


「……な、凪ちゃん?」


 涼の声が、信じられないものを見たかのように震える。

 湊の部屋、立ち込める料理の匂い、そしてあまりにも当たり前にそこに存在する凪。昨日まで「ただの幼馴染だ」と言い張っていた親友の嘘が、これ以上ないほど無惨に、無慈悲に剥がれ落ちた瞬間だった。


「湊……お前……」


 涼の瞳に、深い絶望と、裏切られた悲しみが溢れ出す。


「……ずっと、俺を騙してたのか。凪ちゃんのこと、好きだって言った俺を、影で笑ってたのかよ! 昨日だって、勉強してるなんて嘘ついて……!」


「違う! 笑うわけないだろ!」


 湊の声が荒れる。涼の顔は屈辱と混乱で激しく歪み、今にも雨の降る外へと駆け出そうとした。だが、湊はその腕を、骨が軋むほどの力で強く掴んだ。


「待て、涼! 逃げるな! ……全部話す。五年前のこと、今の俺たちの歪な関係、全部だ。だから、頼むから聞いてくれ!」






 リビングに、深海のような重苦しい沈黙が流れる。

 涼はソファの端に深く腰掛け、握りしめた拳を震わせていた。湊はその正面に座り、傍らには不安げな表情の凪が寄り添っている。

 

 湊は、言葉を一つずつ、自らの臓腑を抉り出すような思いで紡ぎ始めた。

 五年前のあの日、親同士の再婚によって突然「兄妹」になったこと。それまで抱いていた淡い憧れが、その瞬間に「禁忌」へと変わってしまったこと。そして、わずか数ヶ月で再婚生活が破綻し、二人が引き裂かれるように別れたこと。


「……再会したとき、俺は決めてたんだ。もう二度と、あんな思いはしたくないって。凪を遠ざけて、ただのクラスメイトとして終わらせようとした。でも、無理だったんだ」


 湊は、視線を落としたまま続ける。


「あいつは、凪は、俺にとって唯一の『特別』なんだ。理屈じゃない。でも、世間的には義理とはいえ兄妹だ。許されるはずがない。だから、誰にも言えなかった。……特にお前には、一番言いたくなかったんだ」


「……なんでだよ」


 涼が、掠れた声で問い返す。


「軽蔑されたくなかったんだ。お前は真っ直ぐで、正義感が強い。そんなお前に、自分の親友が妹と不適切な関係にあるなんて……そんな泥沼みたいな事実を突きつけたくなかった」


 涼は、顔を伏せたまま黙って聞いていた。雨音だけが、窓を叩いて室内を嘲笑う。

 やがて、涼はゆっくりと顔を上げると、弾かれたように立ち上がり、湊の胸ぐらを両手で掴み上げた。


「……悲しいよ。お前がそんなに一人で苦しんでたことも、凪ちゃんとそんな過去があったことも、何一つ気づけなかった自分が情けない」


「涼……」


「でも、それ以上に腹が立つ! ……親友だろ、俺たち! なんで相談してくれなかったんだよ! 軽蔑なんかするかよ、お前が本気で悩んで、本気で誰かを愛してるって……なんで、俺がそれを受け止められない奴だって思ったんだよ!」


 それは、裏切りに対する憎しみではなく、「頼りにされなかったこと」への、親友ゆえの純粋で激しい憤りだった。涼の瞳には、怒りと共に、熱い涙が滲んでいた。


「……悪かった。……本当に、すまない。俺が、お前を信じきれてなかったんだ」


 湊が深く頭を下げ、その場に跪くような姿勢になると、涼はしばらくの間、荒い呼吸を繰り返していた。やがて、掴んでいた手の力をふっと抜くと、涼は大きな、本当に大きなため息をついた。そして、乱暴に湊の髪をかき回した。


「……たく。お前、全国模試で上位に入るくせに、人付き合いに関してはバカすぎるだろ。……いいよ。もう怒るのやめた。これ以上お前を責めたら、俺がこの幸せそうな凪ちゃんの敵になっちゃうみたいで、寝覚めが悪いしな」


 涼は、どこか吹っ切れたような、照れくさそうな笑みを浮かべた。それから、改めて真剣な眼差しで二人を見据える。


「……正直、まだ複雑だよ。俺の初恋、秒速で砕け散ったわけだしさ。失恋の傷は深いぜ? ……でも、湊。お前がそこまで覚悟を決めて、地獄に落ちるつもりでいるなら……俺は、その地獄の門番くらいにはなってやるよ。千尋一人じゃ、お前らのこの危うい暴走、止められそうにないからな」


「涼……いいのか? 俺たちは、間違ってるんだぞ」


「正解かどうかなんて、他人が決めることじゃないだろ。俺は、俺が信じたい親友を信じる。それだけだ。……その代わり、隠し事はもう一切無しだ。次に何かあったら、マジでぶん殴って絶交だからな。……あと、凪ちゃん!」


 名前を呼ばれ、凪が肩を跳ねさせた。


「湊のこと、泣かしたら承知しないからな。こいつ、こう見えてガラスのハートなんだから」


 涼の精一杯の軽口。それに、それまで罪悪感で押し潰されそうに震えていた凪が、初めてパッと、霧が晴れるような明るい笑顔を見せた。


「……うん! ありがとう、涼くん。……私、みーくんのこと、一生離さない。誰にも譲らないから」


「……わかったわかった、ご馳走様。あーあ、俺も早く、お前らが嫉妬するくらいの彼女作ってやるよ」


 涼がわざとらしく肩をすくめ、リビングの窓を開けた。雨はいつの間にか上がり、雲の切れ間から差し込む陽光が、濡れた街を黄金色に染め始めていた。

 部屋を支配していた冷たく重苦しい断層は、春の終わりの風に吹かれるように、静かに消えていった。


 嘘という「壁」が壊れ、そこに現れたのは、以前よりもずっと剥き出しで、それでいて強固な絆だった。湊、凪、涼……そして、一足先に共犯者となった千尋。四人の関係は、もはや「普通の高校生」という枠には収まりきらない、不思議で危うい形へと変貌を遂げた。


 一番前の席で、透明な孤独を望んだ少年は、今、親友という最大の「理解者」を得て、凪と共に歩む覚悟をさらに深めていた。

 たとえこの先に、社会からの断罪や、予測不能な破滅が待っていたとしても。


 「……じゃあな、湊。明日、学校で。変に避けるなよ?」


 涼はそう言って、軽やかな足取りで部屋を出ていった。

 静かになったリビングで、湊はポケットの中にある、あの金色のパッケージにそっと触れた。

 罪悪感は消えない。けれど、自分を肯定してくれる存在がいる。それは、暗い海を漂う湊にとって、唯一の灯台の光のように感じられた。


 

「……みーくん。信じれる人がいるっていいね」


「……ああ」


 湊はそう言いながら凪の頭を優しく撫でた。

 雨上がりの陽光が、二人の影を長く、一つに重ね合わせていた。





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