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0.01

翌朝の日曜日、街は濡れたアスファルトの匂いに包まれていた。

 重く垂れ込めた雲の隙間から、時折鋭い陽光が差し込み、水たまりを不自然なほど明るく照らし出している。それは、隠し事を持つ者にとって、逃げ場を奪われるような暴力的な明るさだった。


湊はキッチンで朝食の準備をしていた。凪はまだベッドの中で、昨夜の微熱のようなやり取りの疲れを癒している。

 ジューッ、とフライパンでベーコンを焼く音が、静かな部屋に響く。規則正しいその音さえ、今の湊には自らの理性が削り取られていくカウントダウンのように聞こえた。


(……俺は、どこまで耐えられるんだろうか)


昨夜の凪の「壊していいよ」という言葉が、脳裏に毒のようにこびりついて離れない。愛していると認めてしまったその瞬間から、湊の理性は、薄氷の上を歩くような危うさを抱えている。


(落ち着け。まずは朝食だ。日常を、取り戻さないと……)


自分を律するように、湊は箸箱やスプーンが入ったキッチンの引き出しに手をかけた。何気なく、朝食用のカトラリーを取り出そうとした、その時だった。


「……あ」


指先に触れたのは、硬質な金属の感触ではなく、ビニール特有のカサつきと、小さな正方形の厚みだった。


昨日、コンビニから帰宅して、凪にアイスを渡す直前に「隠した」はずの場所。

 だが、動揺していたせいか、それは箸箱の奥ではなく、一番手前の目立つ位置に転がり、その金色のパッケージを晒していた。


「0.01」


極薄の数字が、窓から差し込む朝の光を反射して、逃れようのないほど鮮明に浮かび上がっている。


「…………」


湊の動きが完全に止まる。心臓が、耳元で早鐘を打った。

 自分はどこまで卑怯なのだろうか。凪に「まだだ」と告げ、勉強という「正しさ」に逃げ込みながら、同時にその裏で、彼女を壊すための準備を着々と済ませていた。

 

 この小さな箱は、湊の「聖人君子」という仮面の裏にある、どろりとした執着そのものだった。


その時。


「……みーくん、おはよ」


背後から、眠たげで、けれど鈴の音のように澄んだ声がした。

 湊は心臓が口から飛び出すかと思った。振り返ることができない。引き出しを閉めることさえ忘れて、ただ金色の光を凝視したまま固まってしまう。


パタパタと、素足が床を叩く音が近づいてくる。凪は湊のシャツを羽織っただけの無防備な姿で、湊のすぐ隣、キッチンのカウンターに身を寄せた。


「いい匂い。ベーコン……と、あれ?」


凪の視線が、湊の手元、開いたままの引き出しへと吸い寄せられる。

 

 静寂が、凝固した。

 フライパンの上でベーコンが焦げるパチパチという音だけが、異様に大きく響く。


「…………」


凪の視線が、その金色の正方形に固定される。

 湊は言い訳を探したが、言葉が出てこない。昨日、涼と電話で「ただの幼馴染だ」と嘘をつき、親友を欺いてまで守ろうとしたはずの「一線」が、この小さなパッケージ一つで完全に瓦解した。


「……これ」


凪がぽつりと呟き、細い指を伸ばした。

 湊は止めることができなかった。凪は、その金色のパッケージを指先で拾い上げると、目の高さに持ち上げてじっと見つめた。


「みーくん、これ……昨日、アイスと一緒に買ってきたの?」


「…………っ」


湊は声にならない呻きを漏らし、顔を背けた。首筋まで一気に熱が上がっていく。

 

「……リスク管理、だろ。……万が一、お前が、その……暴走したときのために」


苦し紛れの嘘。だが、凪には通用しなかった。

 凪は、そのパッケージを愛おしそうに指の腹でなぞり、ふっと艶やかな笑みを浮かべた。


「嘘つき。……みーくんこそ、暴走しそうだったんでしょ? 私を、めちゃくちゃにして、二度と離れられないように結びつけたいって……そう思ったから、これ買ったんだよね?」


凪が一歩、踏み込んでくる。湊のオーバーサイズのシャツから覗く白い肩が、湊の腕に触れた。


「……これ、引き出しの一番上にあったよ。わざと? 私に見せて、準備できてるよって教えてくれたの?」


「違う……! それは、ただ……」


「……ねえ、みーくん」


凪が、その金色のパッケージを湊の胸元にそっと押し当てた。

 湊は、その小さな感触が、巨大な鉄球のように自分の理性を押し潰していくのを感じた。

 

 朝の爽やかな光、焼けたベーコンの匂い、そして手元にある背徳の証。

 そのあまりにも不釣り合いな光景の中で、湊は自分がもう、一番前の席の「正しい少年」には戻れないことを確信した。


「……責任、取ってくれるんだよね」


凪の声は、もはや少女のそれではなく、獲物を追い詰めた共犯者のものだった。

 

 湊は、奪い取るように彼女の手からそのパッケージを掴み取ると、乱暴にズボンのポケットに突っ込んだ。

 

「……飯だ。冷めるぞ」


顔を見ずにそう告げる湊の声は、酷く震えていた。

 

 外では雨上がりの世界が動き始めていたが、この部屋の中だけは、暴かれた秘密と濃密な気まずさが、逃げ場のない熱となって渦巻いていた。

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