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 マンションの敷地を出て、駅前へ続く大通りを歩く。

 五月の風は心地よく、街は週末の解放感に満ちていた。家族連れ、手を繋いで歩くカップル、そして部活帰りらしき高校生の集団。

 その光景のすべてが、今の湊には遠い異世界の出来事のように感じられた。


 「普通の高校生」という枠組みから、自分はどれほど遠ざかってしまったのだろうか。


湊はふと、涼のことを思った。


 (涼……あいつ、どうやって伝えよう)


 昨日、学校を去る間際の涼の顔がフラッシュバックする。

 『何かあったら言えよ。俺ら、親友だろ?』

 その無邪気な信頼が、今の湊には鋭利な刃物のように感じられる。もし涼が、自分の憧れている凪が、親友の部屋で、親友のシャツを着て、親友の「愛してる」という言葉に酔いしれていると知ったら。


 (……言えないな。絶対に)




 コンビニに入ると、冷房の乾いた空気が肌を撫でた。アイスのコーナーへ向かい、凪が指定したイチゴのアイスを手に取る。

店内を見て回っていると、ふとある数字が目に飛び込んできた。

 衛生用品の棚、整然と並ぶ箱の隅に記された「0.01」という極薄の数字。湊は、その場で心臓が跳ね上がるのを感じた。

千尋からあんなこと言われたせいで余計気にしてしまった。

部屋で二人きり、いつ境界線を踏み越えてもおかしくない危うい現状。

理性を装いながら、本能の備えをしようとしている自分。その卑劣さと切実さの狭間で、湊は吐き気を覚えるほどの葛藤に襲われた。


自分はどこまで理性を保っていられるのか。

そんなことを考えに振り回されながら、その手は吸い寄せられるように、アイスと一緒にその「証」を買い物籠へ放り込んでいた。店員と目を合わせないように会計を済ませ、足早に店を出た。

 戻り道、アパートの近くの公園に差し掛かったとき、ポケットのスマートフォンが震えた。


 ディスプレイに表示された名前は、皮肉にも「涼」だった。


「…………」


 湊は立ち止まり、通話ボタンを押すかどうか迷った。だが、無視をすれば余計に怪しまれる。彼は意を決して、通話ボタンをスライドさせた。


「……もしもし、涼か?」


『おー、湊。今、何してた?』


 涼の声はいつも通り明るく、裏表がなかった。その響きが、湊の胸を締め付ける。


「……勉強してたところだ。ちょうど少し休憩で、外に出てたんだよ」


『マジか、土曜なのに相変わらずだな。……なあ、月曜のことなんだけどさ。千尋と凪ちゃん、結局あの後どうなったか知ってるか? 千尋に聞いても「別にー」とか言って教えてくれねえんだよ』


「……さあな。女子同士のことは、俺にもよく分からないよ」


『だよなあ。……でもさ、湊。お前、最近本当に凪ちゃんと仲いいよな。……正直、ちょっと羨ましいぜ。お前ら、昔からの知り合いだったんだろ?』


 湊は息を止めた。心臓の鼓動が耳元でうるさく鳴る。


「……ただの、幼馴染だと言っただろ。それ以上でも以下でもない」


『わかってるって。……悪いな、変なこと聞いて。今度、また三人……いや、千尋も入れて四人でどっか遊びに行こうぜ。受験勉強も大事だけど、息抜きもしねえとな!』


「……ああ。そうだな。……また月曜に」


 電話を切った後、湊はその場にしゃがみ込みそうになった。

 嘘を重ねるたびに、足元が泥沼のように沈んでいく。涼の純粋な友情に応えられない自分。凪との秘密を守るために、最も大切な親友を欺き続ける自分。


 (……いつか、壊れる。全部)


 それでも、湊は立ち上がらなければならなかった。

 マンションの最上階、あかりの灯るあの部屋には、自分の帰りを待つ少女がいる。

 自分が「愛している」と認めてしまった、逃れられない運命の相手が。





マンションの部屋に戻ると、鍵を開ける音を聞きつけて、凪が玄関まで飛んできた。


「おかえり、みーくん! アイス、買ってきてくれた?」


「……ああ。イチゴのやつだ」


湊は買い物袋を凪に手渡し、こっそりと例の「証」を自室へ持ち込む隙を窺った。凪は少女のように声を上げて喜び、リビングへと戻っていく。その弾んだ背中を見つめながら、湊は玄関の鍵を二重に閉めた。


ガチャリ、という硬質な音が、今の自分を外界から、そして涼という「良心」から切り離す儀式のようだった。


「みーくんも食べる?」


リビングのソファに座り、凪がカップの蓋を開ける。イチゴの甘い香りが、瞬く間に生活感のあるリビングを満たした。


「……いや、いい。お前が食え」


「もう、そんなに怖い顔しなくていいのに。……何かあった?」


凪がスプーンを口に運びながら、上目遣いに首を傾げる。その仕草一つ一つが、湊の神経を逆撫でするほどに愛おしく、そして恐ろしい。湊は涼からの電話のことを話すべきか迷ったが、結局首を振った。


「……いや、何でもない。ただ、少し疲れただけだ」


「そっか。……じゃあ、こっちおいで?」


凪はソファの自分の隣をポンポンと叩く。湊は抗うことができず、吸い寄せられるように彼女の隣に腰を下ろした。


凪が寄りかかってくる。イチゴの香りと、彼女特有の甘い匂い。湊の肩に触れる彼女の体温が、皮膚を通して心臓まで浸食してくる。

 

「……みーくん。私ね、昨日千尋に話したこと、後悔してないよ」


凪が小さな声で、けれど確信を持って言った。


「秘密を誰とも共有できないのって、すごく苦しいでしょ? 昨日の夜、千尋が帰った後、みーくんが私を抱きしめてくれたとき……私、生まれて初めて『ここにいてもいいんだ』って思えたの」


「…………」


「世界中が私たちの敵になっても、千尋がいてくれる。そして、みーくんが私を愛してくれてる。……それだけで、私はもう、何も怖くないよ」


凪の手が、湊の手をそっと握りしめる。

 湊は、その小さくも力強い手のひらの熱を感じながら、自分の「愛」の正体を改めて突きつけられていた。


それは、清らかなものではない。

 罪悪感と、執着と、孤独が生んだ歪な感情。

 けれど、この温もりだけは、外界のどんな「正しさ」よりも真実だった。


「……凪。俺は、まだお前に、はっきりと答えてない」


湊は、凪の目を見つめて言った。逃げ場をなくすような、深い覚悟を瞳に宿して。


「お前を愛している。それは認めよう。……でも、俺はこの関係を、まだ『恋人』とは呼びたくない。……このままだと、俺は本当にお前を壊してしまう気がするんだ。お前の将来も、人生も、全部奪ってしまいそうで」


「……壊していいよ」


凪は即答した。迷いも、怯えもない、透き通った瞳だった。


「みーくんに壊されるなら、それは私の本望。……ねえ、知ってる? 五年前、引き離された日の夜、私、ずっと神様にお願いしてたんだよ。……次にみーくんに会えたら、その時は、どんな形でもいいから、二度と離れないように、めちゃくちゃに結びつけてくださいって」


凪の顔が近づく。吐息が届く距離。

 

「……だから、みーくん。責任、取ってね。……ねえ?」


湊は、凪の唇が触れる直前で、彼女の肩を優しく、けれど断固として押し返した。買い物袋に忍ばせた「0.01」を思い出し、喉の奥が乾く。


「……まだだ。……今は、勉強するぞ。それが今の俺たちにできる、唯一の『正しい』ことだ」


「ふふ、やっぱりみーくんはみーくんだね。……いいよ、その『まだ』の続き、楽しみにしてる。……今夜かな? それとも、明日かな?」


凪は満足そうに笑い、再び参考書に向き直った。

 

 外では、春の終わりの雨が降り始めていた。

 アスファルトを叩く激しい雨音が、外界との断絶をより深めていく。

 

 一番前の席で、誰にも邪魔されない世界を望んだ少年は、今、後ろの席の少女と共に、暗い深淵へと続く階段を一段ずつ降りていた。

 その先に何が待っているのか、今はまだ、誰も知らない。

 

 ただ、一つだけ確かなことは、

 この部屋の灯りが消えるとき、二人は再び、言葉にならない想いを重ね合わせ、

 夜の闇の中で、お互いの存在を確認し合うのだということ。


「まだ」という言葉に隠された、あまりにも重い未来を抱えたまま。

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