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朝を迎えて

 翌朝。

 カーテンの隙間から差し込む朝日は、昨日までの不透明な関係を暴き出すかのように明るかった。


「……ん」


 湊は、首筋にくすぐったい感覚を覚えて目を覚ました。視界に入ってきたのは、すぐ隣で眠る凪の寝顔だった。昨夜、千尋を交えた勉強会から、凪が眠り、千尋と二人きりで話し込み……。結局そのまま二人でソファで眠ってしまったらしい。

 自分の右腕が、凪の体の下で痺れている。けれど、それを引き抜くことすら躊躇われるほど、凪の寝顔は安らかで、無防備だった。


 (……地獄、か)


 昨夜、千尋に告げた自分の言葉を思い出す。

 凪を愛している。その想いを認めてしまった今、自分たちが「ただの兄妹」や「ただの同居人」に戻ることは、もう不可能だ。千尋という共犯者を得たことで、外の世界に向けた仮面はより強固になったが、この密室の中での純度は、もはや危険な域に達していた。


 キッチンの時計が、午前七時を回る。

 土曜日。学校は休みだが、受験生である二人には模試や自習の予定が詰まっている。湊は痺れる腕を慎重に引き抜き、キッチンへと向かった。


 トースターの焼ける音。コーヒーの香り。

 凪が起きてくるまでの僅かな時間、湊は一人で、これからの「リスク管理」について考えを巡らせていた。


 (千尋は応援すると言った。……だが、それはあいつが凪の親友だからだ。もし、涼が知ったら。もし、俺たちの親が……)


 背後に冷たい風が吹くような感覚。

 その時、パタパタとスリッパを鳴らす音が聞こえ、温かい何かが湊の背中にしがみついた。


「……おはよ、みーくん。いい匂い」


「起きたのか。……顔洗ってこい」


「やだ。あと五分だけ、こうしてて」


 凪は湊の背中に額を押し当て、深く息を吸い込む。湊の着古したシャツに残る、洗剤とコーヒーの、そして湊自身の匂い。


「……みーくん。昨日、千尋が言ったこと、ずっと考えてたの」


「……だから、忘れろと言っただろ」


「ううん。千尋は、私たちのことを本当の意味で『家族』じゃないって認めてくれたんだよ。だから、あんな恥ずかしいこと言えたんだよ」


 凪が湊の背中を、そっと抱きしめる。


「私たちは、もうただの兄妹じゃない。……もうすぐ、本物の『男女』になるんだよ。……その準備、しなきゃね?」


「……俺はまだ告白はしてないし、凪からの答えも聞いてない」


 湊の手が、コーヒーカップを握る指先が、微かに震えた。

 凪の言葉は、いつも甘く、そして鋭い。

 彼女は、湊が自分を愛していると認めた瞬間を逃さず、さらに深く、彼を自分の世界へと引きずり込んでいく。


「ええっ? 千尋にはあんなにはっきり『愛してる』って言ったくせに、私にはまだ、そうやって逃げるんだ?」


 凪が背中に顔を埋めたまま、くすくすと笑う。その振動が湊の脊髄を揺らした。湊は、昨夜の自分の独白を凪がすべて聞いていたことを突きつけられ、喉の奥が焼けるような熱を帯びるのを感じた。


「……あれは、その……勢いだ。状況が状況だったからだろ」


「ふふ、往生際が悪いなあ。でも、いいよ。みーくんが自分で、私の目を見て言ってくれるまで、待っててあげる。その代わり……」


 凪は離れる際、湊の耳たぶを軽く甘噛みして、逃げるように洗面所へ向かった。


「……準備だけは、しておいてね?」


 残された湊は、冷め始めたコーヒーを一口飲み、荒くなった呼吸を整えるために深く溜息をついた。


「……ああ、だから、待っててくれ……」


そうつぶやいた声は一人残った部屋に溶けていった。




 昼過ぎ。

 部屋には、シャープペンシルが紙をなぞる規則正しい音だけが響いていた。

 千尋がいなくなった後のローテーブルは、不自然なほど広く感じられた。凪は湊の隣に陣取り、時折、難解な問題に突き当たると「みーくん……」と甘い声を出す。


 湊はその度に、冷静を装って解説を加える。

 しかし、湊の視線は、解説している参考書の文字よりも、その隣で真剣に、けれど時折自分の顔を盗み見る凪の唇に向けられてしまう。


 (……だめだ。集中できない)


 湊はペンを置き、目を閉じた。

 昨夜の告白。凪の体温。「まだ」という約束。

 それらが、一つの巨大な奔流となって、湊のこれまでの人生観を押し流そうとしている。


「……みーくん? 疲れた?」


 凪が心配そうに顔を覗き込む。彼女の瞳には、何の屈託もなかった。湊を自分の「夫」のように扱い、この家を自分たちの「巣」として完成させようとする、純粋で残酷な欲望。


「……いや。少し、外の空気を吸ってくる。お前はそのまま続けてろ」


「あ、私も行く!」


「ダメだ。お前はまだ、英語の単語テストのノルマが終わってない。終わるまで一歩も外に出さないからな」


「ぶー……。みーくんのケチ。……じゃあ、帰りにコンビニでイチゴのアイス買ってきて? それで許してあげる」


 凪は小首を傾げて微笑む。湊は、その笑顔に抗う術を持たなかった。


「……分かったよ。……すぐ戻る」


 玄関を出て、廊下の冷たい空気に触れる。

 エレベーターを待ちながら、湊は自分の指先を見つめた。

 凪の頬をなぞった、あの感触。

 

 千尋という協力者を得た。

 凪との想いも通じ合った……はずだ。

 けれど、自由になればなるほど、この密室の壁は高く、厚くなっていく気がする。

 

 一番前の席で、誰にも邪魔されずに生きていきたかった少年。

 その後ろの席で、彼を永遠に追い続けると決めた少女。

 

 二人の距離は、もう「合鍵」一つで繋がるレベルではなく、互いの血管に流れる血液が混ざり合うような、逃げ場のない一体感へと変わりつつあった。


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