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湊の共犯者


 月曜日の嵐のような騒動から数日。千尋という「公認の共犯者」を得たことで、湊と凪の共同生活は、危うい均衡を保ちながらもどこか華やいだ空気を纏い始めていた。

 そして金曜日の放課後。千尋は「リスク管理の徹底調査」と称して、二人が暮らすマンションへとやってきた。


「お邪魔しまーす! ……わあ、本当に湊くんの部屋、男の一人暮らしって感じの味気なさね」


 玄関を潜るなり、千尋は遠慮なく室内を見渡した。しかし、その「味気なさ」を塗りつぶすように、玄関には凪の可愛らしいパンプスが並び、棚には二人の好みが混ざり合った雑貨が置かれている。


「……千尋、あんまりジロジロ見るなよ」


 湊は居心地が悪そうにキッチンへ向かい、麦茶を準備する。一方の凪は、自分の家であるかのように甲斐甲斐しく千尋の荷物を受け取り、ソファへと案内した。


「いいでしょ、千尋。ここ、すごく落ち着くの」


「はいはい、幸せそうで何よりだわ。……でも、今日は遊びに来たわけじゃないからね。ほら、来週の小テストの範囲、三人で終わらせるわよ」


 千尋の号令で、ローテーブルの上に教科書とノートが広げられた。





 勉強会が始まって一時間。千尋は、目の前で繰り広げられる「日常」という名の光景に、次第にペンを動かす手が止まっていった。


「ねえ、みーくん。ここの微積、解き方忘れちゃった。教えて?」


 凪が当然のように湊の肩に体を預け、ノートを差し出す。湊は「……授業ちゃんと聞けよ」と毒づきながらも、凪の手からシャープペンシルを自然に受け取り、彼女の指先に自分の手を添えるようにして数式を書き込んでいく。


「ここをこうして、代入するだけだ」


「あ、本当だ! さすがみーくん、教えるのうまいね」


 凪が嬉しそうに湊の顔を覗き込み、湊もまた、無意識に凪の髪を指先で整えてやる。その動作の一つ一つが、あまりにも密接で、あまりにも「当たり前」の体温を伴っていた。


 (……ちょっと待って。これ、どう見ても……)


 千尋は、二人の間に流れる空気の密度に目を見張った。凪の湊に対する執着は知っていたが、湊の方も、凪を拒絶するどころか、彼女が自分のパーソナルスペースに踏み込むことを呼吸をするのと同じレベルで受け入れている。


 休憩時間、凪がキッチンへ飲み物のお代わりを取りに行った際、千尋は我慢できずに小声で湊に尋ねた。


「ねえ、湊くん。あんたたち、付き合い始めてからどれくらいなの?」


「……は?」


 湊は、心底心外だと言わんばかりに眉を寄せた。


「付き合ってない。何度も言ってるだろ、あいつとは元兄妹で、今は一緒に暮らしてるだけだ」


「…………正気?」


 千尋は絶句した。

 今の二人の距離感、視線の混じり合い方、そして何より、お互いがお互いを「欠かせない存在」として扱いながらも、その関係に「恋人」という名前を付けていないことへの違和感。


「あんたたち、今のイチャイチャっぷりを見て、付き合ってないなんて言えるの? 涼が見たらショック死するわよ」


「……イチャイチャしてない。普通の生活だ」


 湊は真顔で言い切った。その無自覚さに、千尋は戦慄を覚えた。この二人は、単なる恋愛関係を通り越して、すでに「運命共同体」としての形を成してしまっているのだ。






 勉強会が深夜に及ぶ頃、連日の疲れが出たのか、凪がソファで舟を漕ぎ始めた。やがて、彼女は湊の膝に頭を預ける形で、静かな寝息を立て始めた。


「……寝ちまったか」


 湊は声を落とし、ソファの隅にあるブランケットを優しく凪に掛けた。その手つきは、まるで壊れ物を扱うかのように繊細だった。


「……湊くん。ちょっと話ししましょう」


 千尋はペンを置き、湊を真っ直ぐに見つめた。リビングの明かりを少し落とし、二人は眠る凪を挟んで、向き合った。


「……何だよ」


「あんた、本当はどう思ってるの? 凪のこと。……さっき『付き合ってない』って言ったけど、あれ、本気?」


 湊は沈黙した。窓の外では、夜の風が木々を揺らす音が聞こえる。膝に乗る凪の重みが、今の彼にとっての唯一の錨だった。


「……あいつは、俺を必要だと言った。俺も、あいつがいない生活は、もう考えられない。……俺たちは五年前、親たちの都合で無理やり引き裂かれたんだ。その傷二人で埋めあってるだけだ」


 湊の声は、掠れていた。


「あいつを大切にしたい。守りたい。……でも、『好きだ』と認めてしまったら、それは同時に、凪との関係も変わってしまう。もし関係が変わって、また離れ離れになったらと思うと、怖いんだ」


 千尋は、湊の横顔をじっと見つめた。普段は冷静で、理屈で壁を作る彼が、これほどまでに脆い内面を晒すのを初めて見た。


「湊くん。あんた、凪に甘えられて困った顔してるけど……実は、あんたの方が凪に依存してるんじゃないの?」


 その指摘に、湊の肩が微かに震えた。


「……そうかもしれないな。凪と再会するまで、俺の世界は灰色だった。勉強して、高校に行って、大学に行って、まともな人間になる。それだけの義務感で生きてた。……でも、こいつが戻ってきて、俺の部屋で笑って、飯を作って……。あいつの温もりに触れるたびに、俺の中の凍りついてた何かが溶けていくんだ」


 湊は、眠る凪の頬にそっと指先を寄せた。触れようとして、ためらい、そして意を決したように、その柔らかい肌をなぞった。


「千尋。俺は……あいつのことが、好きだ。愛してる。義兄妹としてじゃなく、凪という女の子が好きだ」


 初めて口にした、その言葉。

 認めてしまえば、もう後戻りはできない。湊の理性の堤防が、静かに、けれど決定的に決壊した。


「あいつが隣で笑ってくれるなら、俺はどんな地獄でも構わない。涼に憎まれても、親に絶縁されても……凪だけは、もう離したくないんだ。……あいつを愛してる。世界で一番、大切だ」


 千尋は、大きく溜息をついた。その顔には、困ったような、けれどどこか清々しい笑みが浮かんでいた。


「……ようやく認めたわね。本当に、手間のかかるお兄ちゃんだわ」


 千尋は立ち上がり、帰り支度を始めた。


「いい? 湊くん。あんたがそこまで覚悟してるなら、私はもう何も言わない。全力で応援するわ。……でも、凪を泣かせたら、その時は本当に私が介入するからね」


「……ああ。分かってる」


「あと、涼のこと。あいつ、バカだけど勘はいいから。隠し通すなら、もっと本気でやりなさい。……ま、私という最強の共犯者がいるんだから、感謝しなさいよ。……あ、それと……」


「高校生なんだからつけるもんつけなさいよ!」


「「?!」」


 寝ている凪がびくっとした

 その様子を見て千尋は茶目っ気たっぷりにウインクをして、玄関へと向かった。

 湊は彼女を見送り、再びリビングへと戻った。





 千尋が嵐のように去り、重い玄関の扉が閉まる音が響いた後、部屋には再び静寂が訪れた。しかし、その静寂は先ほどまでとは決定的に異なっていた。湊の口から溢れた「愛してる」という言葉の残響が、目に見えない熱を持って空気中に漂っている。




「……いつから起きてたんだ」




 湊は、腕の中に収まる凪の柔らかな感触に戸惑いながらも、その温もりを離せずにいた。膝の上に頭を乗せていたはずの凪は、いつの間にか体を起こし、湊の胸に寄りかかっている。




「……『寝ちまったか』ってあたりからかな」




 凪がクスクスと笑いながら、湊のシャツのボタンを指先で弄ぶ。その仕草一つ一つが、今の湊には心臓を直接撫でられているような、くすぐったい痛みを伴って響いた。




「全部じゃないか!というかそもそも寝てなかったのか!……悪趣味だぞ」




「みーくんがそんなに私のこと、重たく想ってくれてるなんて思わなかった。嬉しいよ、すごく」




 凪は顔を上げ、湊を真っ直ぐに見つめた。少し潤んだその瞳には、勝利を確信した魔女のような悪戯っぽさと、恋を知ったばかりの少女のような純粋さが同居している。




「『愛してる』。……もう一回、言って?」




「……二度と言わない。寝ぼけてたんだ」




「嘘。あんなに真剣な顔して千尋に話してたのに。……ねえ、みーくん。さっきの千尋の言葉、どう思う?」




 凪が、凑の耳元で囁くように問いかけた。千尋が去り際に残した、あの身も蓋もない「リスク管理」についての爆弾発言。




「……あいつは、ただの茶化しだ。忘れてろ」




「でも、みーくんも『地獄でも構わない』って言ったよね? ……本当は、したいって思ってるんでしょ?」




 凪の指が、湊の首筋を這い、マフラーで隠していた境界線をなぞる。湊の喉仏が大きく上下した。否定したい理性と、凪の体温に同調し始める本能が、彼の中で激しく衝突していた。




「……するの?」と、凪が重ねて問う。




「……まだしない!」




 絞り出すような湊の声。それは、自分自身に言い聞かせるための最後の防衛線だった。




「ふふ、……『まだ』、ね」




 凪は勝ち誇ったように笑い、湊の胸に深く顔を埋めた。その「まだ」という一言には、いつか訪れるはずの「その時」への期待と、現在のこの甘い猶予期間を楽しもうとする残酷なまでの全能感が含まれていた。

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