凪の共犯者
五限目の移動教室へと向かう喧騒の中、湊はあえて涼の隣を歩き、早足でその場を去った。背後で千尋が凪の腕を掴み、空き教室へと連れ込む気配を感じたが、今の彼にはそれを止める権利も、助ける余裕もなかった。
「なあ湊、お前さっきの千尋、なんかあったのか?」
涼が心配そうに振り返りながら言う。その言葉には裏がなく、純粋にクラスの「幼馴染」を案じている親友としての顔があった。
「……女子の友情なんて、そんなもんだろ。放っておけ」
湊は感情を押し殺し、突き放すように答えた。そうでもしなければ、自分の声が震えてしまう気がしたからだ。
「冷てえなあ。まあ、お前らしいけどよ。でもさ、お前もなんかちょっと変だぞ? 何かあったら言えよ。俺ら、親友だろ?」
涼は頭を掻きながら笑っている。その無邪気さが、今の湊には猛毒のように感じられた。涼は凪に淡い憧れを抱いている。もし涼が、自分の親友と、その憧れの美少女が「毎晩一つ屋根の下にいる」と知ったら。その笑顔は一瞬で憎悪に変わり、この三年間築き上げてきた平穏な学園生活は、音を立てて崩壊するのではないか。
湊は何も答えず、ただ階段を上る速度を上げた。視界の端で、窓から差し込む午後の光がやけに白く、刺すように感じられた。
一方、放課後の準備室の裏。
薄暗い廊下の突き当たりにあるその場所は、普段から生徒の出入りが少なく、重苦しい静寂が支配していた。千尋は凪を壁側に立たせると、逃げ場を塞ぐように距離を詰め、一切の感情を排した声で切り出した。
「凪。正直に言いなさい。……あんたと湊くん、今どうなってるの?」
「……え?」
凪は一瞬、きょとんとした表情を浮かべた。それから視線を泳がせ、得意の「可愛い困り顔」を作ろうとした。小首を傾げ、潤んだ瞳で相手を見つめる――。だが、千尋の冷徹な瞳には、その防衛本能は一切通用しなかった。
「あの肉じゃがの具材、ハート型の人参。あんたが湊くんの分も作ったんでしょ? それも、昨日の夜か、今日の朝に」
千尋の追求は、凪の嘘を切り裂いていく。
「……ねえ、凪。あんた、まさか……」
千尋の脳裏に、一つの「ありえない可能性」が浮かんだ。凪は湊への執着を隠そうともしていなかった。再会を喜び、彼に尽くし、彼に拒絶されても追いかけていた。だが、今の弁当の「生活感」は、通いの幼馴染という境界線を明らかに越えている。
凪の肩が、びくりと震えた。壁に背を預けたまま、彼女は数秒間、何も言わずに床の一点を見つめていた。やがて、その唇が微かに震え、これまで千尋ですら見たことのないような、心底幸せそうで、それでいて危うい笑みを浮かべた。
「……千尋には、隠し事できないね」
凪は諦めたように、ふっと肩の力を抜いた。
「そうだよ。私、今みーくんの家に住んでるの」
「………………は?」
千尋の口から、間の抜けた声が漏れた。
驚愕。困惑。そして、その後に押し寄せてきたのは、親友のあまりにも大胆不敵な行動に対する、戦慄に近い感銘だった。
「ちょ、ちょっと待って……住んでるって、同棲!? やっぱり、あんたたち、元義理の兄妹だったのね?! というかそんなことより親同士があんなに……ええっ!?」
「うん。みーくん、と一緒に今暮らしてる。お母さんの許可もとってる」
凪は少し照れたように、けれど誇らしげに語った。
千尋はその言葉を聞きながら、凪の顔をまじまじと見つめた。
中学時代、親友の彼女だけに見せていたあのどこか影のある、寂しげな凪の面影はどこにもなかった。今の彼女は、生命力に溢れ、頬は上気し、瞳には揺るぎない確信が宿っている。
「……あんた、本当に凄いわね」
千尋の口から漏れたのは、深い感嘆だった。
「私、入学式の時、本当に心配してたんだから。幼馴染に拒絶されて、またあの頃みたいにボロボロになっちゃうんじゃないかって。……でも、まさかその幼馴染がいつも話してたお義兄さんで、合鍵まで手に入れて、中まで入り込んでるなんてね」
「……みーくんが、入れてくれたんだよ。私を」
親友がここまで劇的に立ち直った理由が、湊との密室生活にあるのだと確信した。
「……あはは! 湊くんも災難ね。あんな堅物くんが、あんたみたいな猛獣に毎日詰め寄られてるなんて。想像しただけで傑作だわ」
千尋は腹を抱えて笑い出した。さっきまでの殺伐とした空気は霧散し、廊下には親友同士の、隠し事のない明るい空気が戻っていた。
「千尋……隠してたこと怒ってないの?」
「怒るわけないでしょ! むしろ最高。凪、ずっとお義兄さんのこと好きって言ってたもんね。それを親の勝手で引き裂かれて、やっと取り戻したチャンスなんだから。……全力でやりなさいよ!」
千尋は凪の肩を強く叩いた。
「湊くんの胃袋を掴んで、生活を侵食して、あいつが『凪がいない生活なんて考えられない』って思うまで追い込みなさいよ!」
「……うん! 私、頑張る!」
凪の瞳に、新たな決意の炎が灯った。
千尋は、凪のこの「生気」を、何よりも守ってあげたいと思った。湊がどれほど苦悩しようとも、彼が凪に与えている影響は、間違いなく救いなのだ。
「でも、リスク管理はちゃんとしなさいよ」
「分かってる。お弁当は気を付けないと……ありがとう、千尋」
「リスク管理ってそっちじゃないよ」
「え?」
困惑する凪に千尋はにやにやしながら
「まだ高校生なんだから、つけるものつけないとね」
「な?!」
恥ずかしそうに赤面する凪を見てさらに千尋はにやにやする。
そして二人は手を取り合い、笑い合った。
千尋は、もはや「心配する側」から「応援する共犯者」へと、完全に立場を変えていた。
廊下の角を曲がると、そこには案の定、壁に寄りかかって落ち着かない様子で立っている湊の姿があった。
湊は、千尋に呼ばれて待っていた。湊は凪と千尋が二人で笑いながら出てくるのを見て、顔がこわばった。
「……湊くん。聞いたわよ」
千尋がニヤリと不敵な笑みを浮か、湊の目の前に立つ。
「……」
「あんたら、意外と隅に置けないわね。凪を部屋に連れ込んで、毎日何させてるのかしら?」
「……っ! 違う、それは……!」
湊の顔が、一瞬で耳まで真っ赤に染まった。動揺のあまり言葉を失う湊を見て、千尋はますます面白そうに目を細めた。
「いいじゃない、別に。凪、前よりもずっと元気になったし。でも凪のこと、泣かせたら承知しないからね」
千尋は湊の肩を「ポン」と叩くと、耳元で小さく囁いた。
「……頑張って、お義兄ちゃん。応援してるわよ」
千尋はそう言い残し、上機嫌で廊下を去っていった。
残された湊は、石のように固まったまま、状況を飲み込もうと必死だった。隣では、凪が自分の袖をそっと引き、いたずらっぽく微笑んでいる。
「……凪。変なこと言ってないよな」
「変なことは言ってないよ。……ねえ、帰りにスーパー寄ろう? 千尋が、もっと精のつくもの食べさせろって言ってたよ」
「……あいつ」
「ごめんね、話しちゃって」
「大丈夫だよ。隠せそうもなかったし、共犯がいたほうが助かる」
「そうだね」
湊は溜息をついた。けれど、その溜息には、先ほどまでの「孤立無援の絶望」は混ざっていなかった。
二人だけの秘密に、千尋という最強の味方が加わった。
夕闇の校舎を後にする二人の影。
湊は、自分の後ろを一歩遅れて歩く凪の、明るい鼻歌を聞きながら、少しだけ緩んだ自分の口元を見られないように顔をそらした。




