迎えた月曜日
月曜日の朝。
三月の終わりに吹き荒れた砂嵐が嘘のように、四月の空はどこまでも透き通っていた。しかし、浅井湊の胸のうちは、その晴天とは裏腹に、湿り気を帯びた重い沈黙が支配している。
一人暮らしを始めて数週間、静寂だけが唯一の友人だったこのマンションの一室。
だが、今朝の湊の視界には、自分以外の生活の痕跡が、残酷なほど鮮やかに残っていた。洗面台に並んだ二本の歯ブラシ、キッチンに置かれた凪の好みの甘いジャム、そして、彼が袖を通したシャツに残る、凪の髪と同じ淡いフローラルの残り香。
(……ゆっくり進めていけばいい)
湊は、玄関の鏡に向かって、自分に言い聞かせるようにネクタイを締め直した。
父の離婚、そして凪との離別。あの時、人を信じることをやめた。深く関われば、失った時の傷が深くなるだけだ。そう悟ったはずだった。だが、凪の母から「成績維持と勉強」を条件に同棲に近い許可を勝ち取った今、彼はかつてないほどの危うい境界線に立っている。
登校中、湊の脳裏には、昨夜の凪の姿が焼き付いて離れない。
金曜日に再会し、過去の空白について話しているときには、まだ再会の衝撃の方が強かった。だが、週末を共に過ごし、改めて意識せざるを得なくなった。凪は、いつの間にか直視するのを躊躇わせるほどの「異性」へと成長していたのだ。不意に袖を掴む指先、上目遣いで覗き込んでくる潤んだ瞳。それがわざとなのか、それとも無意識の甘えなのか、今の湊には判断がつかない。ただ一つ言えるのは、そのたびに彼の胸の奥で、理性が悲鳴を上げているということだ。ましてや、彼女は自分がかつて、そして今も密かに恋心を抱いている相手なのだから。
校門をくぐり、自分の教室へと向かう。
湊の席は、窓際、一番左の列の最前列だ。一見、周囲から隔絶された場所だが、その真後ろには、今最も自分の精神を揺さぶる相手が座っている。
湊が席に着き、教科書を机に並べていると、背後からふわりと甘い香りが漂ってきた。
「湊くん、おはよう」
すぐ後ろの席から、市川凪が声をかけてくる。
クラスメイトの前では「かつて親同士が再婚していた時期があるだけの、ただの幼馴染」という設定を装いつつも、その声には隠しきれない親愛が混じっていた。湊は振り返らずに、短く応じる。
「……おはよう」
最前列の湊は、教壇の方を向かなければならない。必然的に、凪からは湊の広い背中が常に「特等席」として視界に入ることになる。凪は湊の背中に向けて、他の誰にも聞こえないような小さな声で囁いた。
「……みーくんと一緒に居られて幸せ」
湊の指先がピクリと跳ねた。公共の場で、好きな相手からそのようなことを言われて、湊は平静を装いながらも、耳たぶがわずかに熱くなるのを感じた。
「……うるさい」
冷たく突き放すような言葉を投げたが、凪は「くすっ」と小さく笑っただけだった。彼女は湊の背中を見つめながら、その肩のラインや、髪の生え際を、飽きることなく視線でなぞっている。その視線は、もはや妹が兄に向けるそれではなく、一人の女が意中の男を品定めするような、熱を帯びたものだった。
そこへ、教室内を騒がしく横切って、湊の親友・**北島涼**がやってきた。涼の席は湊の右隣の列だ。
「よお、湊。今朝も朝一からお堅いねえ。……お、凪ちゃんもおはよ! 相変わらず朝からキラキラしてんなあ」
「涼くん、おはよう。朝から元気だね」
凪は瞬時に「学校用の陽キャな美少女」の顔に切り替え、涼に微笑みを返す。その鮮やかすぎる転換に、湊は内心で舌を巻いた。
涼は湊の肩をポンと叩き、身を乗り出して二人の間に入り込む。
「なあ湊、お前と比べてなんか雰囲気変わったよな。ガードが固くなったっていうか……いや、逆に隙ができたのか? どっちにしろ、なんか隠し事してるだろ。一人暮らし始めて羽伸ばしすぎてんじゃないの?」
涼はあくまで、湊が一人で自由を謳歌しているという前提で茶化してくる。だが、その言葉は図らずも湊の深部を突いていた。
「……涼、お前の勘は時々外れる。今がその時だ」
「へへっ、そうかよ? 凪ちゃんはどう思う? こいつ、家でこっそりエロ本でも溜め込んでる顔してないか?」
涼のいきなりの不躾な質問に、一瞬びっくりして肩を揺らした後、凪は湊の背中に向けて、彼にしか見えない角度で悪戯っぽく微笑んだ。
「……どうなんでしょう。なにかいいことでもあったんですかね、湊くん」
凪のその含みのある言い方に、湊の背筋に冷や汗が流れる。涼は「ほら見ろ、やっぱり何かあるんだな!」と楽しそうに笑い、湊の反応を観察している。
もし涼が、今この瞬間、湊のマンションの合鍵が凪のスクールバッグの中に収まっていることを知ったら。もし、昨夜二人が同じテーブルで夕食を囲み、今朝も一緒に準備をしたことを知ったら。
涼との友情、そして凪の学校での平穏な立場――そのすべてが崩壊するリスクを背負いながら、湊はただ沈黙を守るしかなかった。
「北島くん、それくらいにしてあげなよ。湊くんが困ってるじゃない」
助け舟を出したのは、宮前千尋だった。彼女は涼の幼馴染であり、この教室で唯一、凪の本性を知る人物だ。
「ちっ、千尋かよ。相変わらず真面目だなあ」
「真面目なんじゃなくて、あんたがデリカシーなさすぎるの。ほら、もうすぐ先生来るよ」
千尋は涼を自分の席へと促したが、その視線は鋭く、親友である凪に向けられていた。千尋は気づいている。凪が湊に向ける視線の温度が、先週までとは決定的に異なっていることに。
一限目の予鈴が鳴り、教室内が少しずつ静まり返っていく。
湊は、前を向いて教科書を開いた。だが、意識のすべては背後に集中している。
最前列の自分からは、凪の顔は見えない。だが、すぐ後ろで彼女が教科書を捲る音、かすかな衣擦れ、そして時折漏れる吐息が、嫌というほどダイレクトに伝わってくる。
一方、凪は湊の広い背中を独占できるこの状況を、心ゆくまで楽しんでいた。
教壇に立つ教師の言葉など、今の彼女の耳には一切入っていない。彼女が見つめているのは、湊の後頭部にある少しだけ跳ねた毛先であり、制服越しでもわかる彼の逞しい肩のラインだった。
(……みーくんの背中、やっぱり好きだな)
凪は、机の下で、自分の足をわずかに伸ばした。
そして、湊が座っている椅子の脚に、自分の靴の先を、そっと、触れるか触れないかの距離で近づける。
直接触れ合っているわけではない。けれど、その微かな「領空侵犯」が、湊にははっきりと伝わっていた。
湊は、ペンを握る手にぐっと力を込める。
前後の席。誰もが勉強に集中している公共の場。その裏側で、自分たちだけにしか分からない通信が交わされている。
父の離婚を経て、人を信じられなくなった自分。けれど、この背後から迫る「信頼」とはまた違う「執着」の熱に、湊はどこかで安らぎを感じてしまっている自分を、必死に理性で押さえつけていた。
授業開始のチャイムが、厳かに鳴り響く。
これから始まる、長い一週間。
マンションという「密室」と、教室という「公共」を往復する二人の奇妙な二重生活は、まだ始まったばかりだった。
親友の涼の疑念、千尋の危惧、そして何より、自分自身の内に潜む、凪への抑えきれない渇望。
湊は、ノートの端に、意味のない線を一本、強く引き込んだ。
(……この三年間、俺は耐えきれるのか)
最前列で孤独を装う少年の背中を、すぐ後ろから少女の熱い視線が、一秒たりとも離さずに追い続けていた。




