第三章 最初の客は震える少女
扉の向こうから聞こえる声は、明らかにこちらが思っているのと逆のことを言っていた。
「どなた様ですか」と問うているのは、こちらの方のはずだ。
けれど扉の向こうの誰かは、いきなり現れた建物に、震えながらも近づいてきていた。
「私が出ます」
千鶴さんが落ち着いた声で言った。
ホール責任者として、最初の客を受けるのは自分の役目だ、というように、彼女は背筋を伸ばした。
扉が、ゆっくりと開く。
立っていたのは、十七、八歳ほどの少女だった。
淡い亜麻色の髪。粗末だが清潔な布のワンピース。手には籐のかごを抱えている。靴は革紐で結ばれた古い革靴で、底は草で汚れていた。
目だけが、奇妙に印象的だった。
青みがかった灰色の、澄んだ瞳。
けれど、頬はやつれ、唇は青白く、栄養が足りていないのが一目で分かった。
「あ、あの……」
少女は、両手のかごをぎゅっと胸に抱きしめた。
「光が降りてきて、それでこの建物が、見たことのない形のお家が、突然、村の外れに……それで私……」
「中に、入りますか」
千鶴さんが、しゃがんで目線を合わせた。
「悪い人間ではありません。あなたを傷つけたりしません」
少女は数秒迷い、それから小さくうなずいた。
ホールに通された彼女に、詠子さんが椅子を引いた。
「お名前を、伺ってもよろしいですか」
「エ、エルフィーラと、申します。隣の村の者です」
「私は結城千鶴。こちらは真壁詠子。あちらが料理長のムッシュさん。後ろにいるのが、副料理長のジェフリーさんと、皿洗いの蓮くんです」
「い、いえ、私こそ、突然押しかけて……」
言葉の途中で、エルフィーラが咳きこんだ。痩せた肩が小さく震える。
「失礼ですが、最後に食事をされたのは、いつ頃ですか」
ムッシュさんが、低い声で聞いた。
エルフィーラは目を伏せた。
「三日、前です。けれど、口にしても、味が、しないのです。それに、お腹も、空かなくて」
「三日、何も食べていない」
千鶴さんが息を呑んだ。
「ええ。私だけではないんです。村のみんな、徐々に食事ができなくなっていて、痩せていって……それで私、誰か助けてくれる人がいないかと、夜歩いていて、それで」
「分かりました」
ムッシュさんは、振り返って言った。
「蓮、コンソメを温めなおせ。塩は控えめでいい」
「はい」
俺は厨房に戻り、ロックポットの中で温めていた今夜の試作コンソメを取り出した。
普通のコンソメではない。野菜くずと、本来は捨てる肉のスジから引いた、淡い黄金色の出汁だ。仕込みのついでに、俺がいつも個人的に作っていたものだった。
香味野菜は徹底的に洗い、傷んだ部分を取り除き、雑味の出ないように丁寧に煮出す。アクは、最初の三十分で四回、丁寧にすくう。
誰のためでもなく、ただ「もし誰かに出したら美味しいだろうな」と思って続けていた、ただの趣味だった。
小さなカップに注ぎ、皿の上に置く。
「こちらでよろしいですか、ムッシュさん」
「ああ、いい」
ムッシュさんは、自分でホールへ運ぼうとしたが、ふと足を止めて、俺を振り返った。
「お前が運べ」
「え」
「お前のだろう」
俺は、断れなかった。
震える手でカップを盆に乗せ、ホールへ歩いていく。
エルフィーラの前に、静かに置く。
「あの、よろしければ、一口だけ」
「は、はい」
彼女はおそるおそるカップを持ち上げ、唇に近づけた。
最初の一口を、口に含む。
ほんの数秒、彼女の表情は、停止していた。
そして彼女の目からぽろり、と涙がこぼれた。
「あの」
俺は慌てた。
「もしかして、口に合わなかったですか、すみません、味付けは」
「ち、違います」
エルフィーラは首を振った。
「美味しい、です」
声が、震えていた。
「美味しい。本当に。久しぶりに、味が、する。それも、こんなに、優しい味」
彼女はもう一口、すするように飲んだ。
「あなたの作るものは、真っ直ぐな水みたいです」
「俺、ですか」
「はい。あなたが、これを、ですよね?」
俺は、何と答えていいか分からなかった。
ホールの空気が、変わっていた。
千鶴さんも、詠子さんも、ジェフリーさんすらも、その光景を黙って見ていた。
ムッシュさんは、相変わらず無表情だったが、一度だけ、小さくうなずいた。
俺は反射的に、頭を下げていた。
「ありがとう、ございます」
お礼を言われたのに、こちらが頭を下げているのは、おかしい。
でも、他にどうしていいか分からなかった。
長い時間をかけて、エルフィーラは、カップ一杯の出汁をすべて飲み干した。
飲み終わってから彼女は深呼吸をして、こちらを見つめた。
「あの、一つ、聞いてもよろしいですか」
「はい」
「皆さんは、どこから、いらしたんですか」
「それは、こちらが、聞きたい」
ムッシュさんが、椅子を引き寄せて座った。
「君たちの世界は、いったい、どうなっているんだ」
エルフィーラは、両手をかごの上に置き、ゆっくりと息を吸った。
「私たちの世界は」
彼女の声は静かだった。
「食べる喜びを、失っているんです」




