第四章 食欲喪失の世界
「食べる喜びを、失っている」
千鶴さんが、エルフィーラの言葉を反芻した。
エルフィーラはうなずいて、ぽつぽつと話し始めた。
ここはアルベリオン王国の北東部、ヘリエ村。村人は二百人ほど。元々は穏やかな農村だった。けれど、半年ほど前から、不思議な変化が起きていた。
「最初は、ご年配の方からでした」
彼女は、膝の上で指を絡めながら言った。
「お祭りの席で、どんなに美味しい料理が並んでも、味がしないと言うようになって。そのうち、若い人たちもそうなってしまって」
「味だけが、消えるんですか」
「ええ。最初は味が薄くなって、それから、何を食べても口の中に砂が入っているような、そんな感覚になるそうです」
「食欲は」
「徐々に、なくなります。最後には、食べたいという気持ちそのものが、消えてしまう」
ジェフリーさんが、小さく舌打ちをした。
「そんな話、信じられるか」
「信じる信じないの話じゃない」
ムッシュさんが、低く言った。
「現にこの子は、三日食べていない。三日食べていない人間が、こんな静かに座って話せるのは、本来の食欲というものが消えているからだ」
エルフィーラは目を伏せた。
「お父さんも、お母さんも、もう何日も、お粥のかわりに白湯ばかりです。立ち上がる力もなくて」
ホールの誰もが、しばらく黙った。
「他の村は、どうなんだ」
ジェフリーさんが、棘のある声で聞いた。
「どこも、似ています。大きな町は少しまし、と聞きますが、それも時間の問題だと言われていて」
「原因は?」
千鶴さんが聞く。
エルフィーラは、声をひそめた。
「私たちは、これを、魔王の呪いだと、呼んでいます」
「魔王」
俺は思わず復唱してしまった。
ファンタジー小説の中の言葉が震えた少女の口から発せられている、その光景に、俺の頭はまだ追いついていなかった。
「百年前まで、この大陸には魔王はいませんでした。けれど、五十年前に、ヴォイドルと名乗る存在が、北の死の山に現れて、それから、世界は少しずつ歪んでいるんです」
「戦争はあるのか」
「武力での戦いは、ほとんどありません。魔王ヴォイドルは、人を殺さない。ただ、世界から食欲を奪っていくのです」
「それは」
ムッシュさんが、目を細めた。
「殺すよりも、ずっと残酷だな」
その言葉にエルフィーラは弱くしかし深く、うなずいた。
「私は、村の代表でも、戦士でもないです」
彼女は、両手で胸を押さえた。
「ただ、もう、誰にも頼れなくて、夜歩いていて、それで、光に誘われるように、ここに辿り着いて、それで、こんなに美味しいスープをいただけて、私、生きていてよかったと、何ヶ月ぶりかに思えました」
また、彼女の目から涙がこぼれた。
「すみません、たくさん、しゃべってしまって」
「いえ」
千鶴さんが、優しく彼女の肩に手を置いた。
「お話しいただいて、こちらも、少しずつ状況が分かってきました」
ムッシュさんが立ち上がった。
「全員、奥に来てくれ。ミーティングだ」
エルフィーラを残し、俺たちは厨房に集まった。
ムッシュさんは、コンロの脇の壁にもたれて言った。
「整理しよう。我々は、別の世界に転移した。原因は不明。戻る方法も不明。そしてこの世界では、住民の食欲が、何らかの理由で奪われている」
「私たち、これからどうするんですか」
千鶴さんが聞いた。
「飯屋を、開ける」
ムッシュさんは、即答した。
「は」
ジェフリーさんが、目を剥いた。
「冗談だろ。この状況で、飯屋? まずは戻る方法を探すべきじゃないのかよ」
「戻る方法は分からん。だが、店はある。食材も、当面の分はある。そして、客はいる」
「客って、あの娘一人だろう」
「あの娘一人は、村の代表だ。あの一人を救えば、その後ろに二百人いる」
「だからって」
「ジェフリー」
ムッシュさんは、その太い声で、副料理長の名を呼んだ。
「俺たちは、料理人だ。食えない人間がいる場所で、料理を作らなくて、何のための料理だ」
ジェフリーさんは、口を開きかけ、閉じた。
千鶴さんが、軽くうなずいた。
「私も、ムッシュさんに賛成です」
詠子さんもうなずく。
「私もです。お酒は今、あまり需要がないかもしれませんが、サービスはできます」
俺は、当然、反対する立場じゃない。
言われたことを、淡々とやるだけだ。
「蓮、お前は」
ムッシュさんが、俺を見た。
「俺は、皿を洗います」
「それで十分だ」
ジェフリーさんは、しばらく黙ってから、肩をすくめた。
「分かったよ。ただし、俺の指揮も入れさせてもらう。料理長一人じゃ手が回らないだろうからな」
「好きにしろ」
ムッシュさんはそれだけ言って、エプロンを巻きなおした。
「明日の朝、開ける。看板は出さなくていい。あの娘が、村に戻って、必要な人を連れてくる。それまでに仕込みを終わらせるぞ」
「はい!」
声が、自然に揃った。
俺は、業務日誌の新しいページを開きながら、深く息を吸った。
明日の仕込みは、いつもより重い。
でも、それはきっと、悪い重さじゃなかった。
翌朝。
まだ二つの月が低く沈み、東の空にこの世界の太陽がのぼり始めた頃。
店の前には、すでに長い行列ができていた。




