第二章 レストラン、世界の外へ
光が引いていく。
最初に戻ってきた感覚は、足の裏だった。
タイル張りの厨房の床。なじんだ感触。
次に、匂い。生ハーブの香りと、洗剤と、誰かが焼いた今夜のパンの残り香。
目を開ける。
見慣れた厨房だ。コンロも鍋棚もシンクも、何一つ変わっていない。
「……夢、か?」
声を出してみて、自分の喉が乾いていることに気づいた。
厨房の入り口から、ばたばたと足音がした。
「蓮、無事?」
千鶴さんだった。エプロンを胸の前で握りしめて、青い顔をしている。後ろから詠子さん、ジェフリーさん、洗い場の高橋さん、それからムッシュさんが続いて入ってくる。
全員、店にいた。
「みんな、どこにも怪我は」
「怪我はない。けど」
ムッシュさんが、低い声で言った。
「窓を、見ろ」
俺たちはホールへと向かった。
大きな窓ガラスの向こう。さっきまでは、見慣れた裏路地と、向かいのビルの非常階段と、街灯のオレンジ色の光があったはずだった。
「……」
誰も、何も言わなかった。
窓の外には、見渡す限りの草原が広がっていた。
空には、月が二つあった。
「嘘だろ……」
ジェフリーさんが、初めて聞くような震えた声を出した。
千鶴さんがゆっくりと、店の正面玄関の扉に近づいていく。鍵を開け、押し開ける。
ふわっと、湿った草の匂いが流れこんできた。
夜風だ。けれど、東京の夜風じゃない。土と、花と、何か甘い樹液のような匂いが混じっている。
草原の遠くに、黒く影をつくる山並みが見える。その向こうに、二つの月が低く浮いていた。
「現実、なんですか、これ」
詠子さんがつぶやく。
ムッシュさんは、無言で店内に視線を戻した。
「とりあえず、扉を閉めろ。中に何が入ってくるか分からん」
千鶴さんが扉を閉める。鍵もかける。
俺たちは、ホールの真ん中に集まった。
「考えられる可能性は二つだ」
ムッシュさんが口を開いた。
「一つ、これは集団で見ている長い夢。二つ、本当に、何かが起きた」
「夢にしては、空気が、違いすぎます」
千鶴さんが言った。
「私も同感です」
詠子さんもうなずいた。
ジェフリーさんは、何も言わずに窓の方ばかり見ている。顔色が悪い。
「とにかく、今夜は店から出ない」
ムッシュさんが結論を出した。
「明日、明るくなってから状況を確認する。蓮」
「はい」
「電気と水とガス、全部点検しろ。冷蔵庫の温度も全部見直せ。今、お前の業務日誌が一番頼りになる」
「……はい」
俺は反射的に手を動かしていた。
厨房に戻り、ブレーカーを確認する。電気は来ている。水道もガスも生きている。けれど、外に発電所があるとは思えない場所で、なぜ電気が来ているのか、説明はつかなかった。
冷蔵庫の温度計を一台ずつ確認しながら、俺は業務日誌の新しいページを開いた。
・転移発生 午後十時半過ぎ
・店舗内のインフラは生存 原因不明
・窓外は草原 月二つ
・スタッフ全員無事
書きながら、頭の片隅で、まだ何かを考えていた。
何か、忘れている気がする。
二つの月。草原。土の匂い。
子供の頃に読んだ本の中に、こういう景色があった気がした。
「異世界、ですか」
詠子さんが、俺の隣に立っていた。
「シンプルな結論ですけど、それしか説明がつかない気がします」
「俺もです」
俺は答えた。
「現代知識を持って、別の世界に飛ばされた、と」
「ありえない、けど、それが一番ありえそうな話ね」
千鶴さんが言った。
ジェフリーさんは黙ったまま、ホールの椅子に腰を下ろしていた。普段の傲慢さは、どこかに消えていた。
ムッシュさんがホールに戻ってきて、低くつぶやいた。
「もしそうなら、明日からどう生きるかだ」
誰も答えない。
扉の外で、何かが動く気配がした。
音もなく、しかし確かに、近づいてくる。
全員の目が、扉に集中する。
次の瞬間。
控えめな、しかし切迫した音で、扉が叩かれた。
とん、とん、とん。
二つの月が照らす扉の向こうから、震える女性の声が聞こえた。
「ど、どなた様、ですか……」




