第一章 皿の中に映る顔
午後十時半。
厨房の奥、業務用食洗機の隣のシンクで、俺は今夜千枚目の皿を洗っていた。
ソースの跡。指紋。乾きかけたパン屑。それらを一枚ずつ落としていく。スポンジの泡が手首までのぼってくる。蛍光灯の光が、白い泡に反射して、ぼんやりと俺の顔を映していた。
冴えない顔だ、と思った。
「おい、蓮。お前、まだそんなとこで遊んでんのか」
背中越しに声が飛ぶ。副料理長のジェフリーさんだった。
「すみません、すぐ終わります」
「すぐ終わるならとっくに終わってるんだよ。お前、何年皿洗ってんだ」
「五年です」
「五年もやってその速度かよ。使えねえ雑巾だな」
ジェフリーさんは舌打ちをして、調理台の方へ戻っていった。
俺は手を止めなかった。止めたら次の皿が遅れる。スポンジを動かしながら、頭の中だけで小さく息を吐く。
使えねえ雑巾。何度言われたか、もう数えていない。
俺はうちの店「ラ・ヴェリテ」で皿洗い兼コミ・シェフをしている。佐久間蓮、二十三歳。料理人を志して上京したが、いつの間にかシンクの前から動かなくなっていた。
本音を言えば、俺だってフライパンを振りたい。けれど、振る場所がない。包丁の音と、油の弾ける音と、ジェフリーさんの怒鳴り声の間に、俺の入る隙はない。
だから、皿を洗う。野菜の皮を剥く。ゴミを出す。冷蔵庫の中を整理する。誰もやりたがらない仕事を、誰よりも丁寧にやる。
それだけが、俺がここにいる理由だった。
シンクの縁に、俺の業務日誌が置いてある。エプロンのポケットからいつもはみ出しているそれは、もう五年分。表紙の角はぼろぼろで、ページの端にはソースの染みがいくつも残っている。
今日も、書きこんだ。
・洗浄皿数 千二十四枚
・廃棄食材 ホウレンソウの根本 約百五十グラム
・冷蔵庫第三段 温度計の表示が三度高め 要点検
・新人さんの包丁の入れ方 握りが浅い気がする
誰に提出するわけでもない。料理長のムッシュさんが「お前は記録してるのか」と一度だけ聞いてきたことがある。それだけだ。
「蓮、最後の鍋お願い」
ホール責任者の千鶴さんが、奥から声をかけてきた。
「はい」
俺は皿を切り上げて、ソース鍋を引き取った。鍋肌に焦げついたデミグラスは、固まると地獄のように落ちにくい。けれど落とし方には、コツがある。お湯を張って、十分置いて、それから木ベラの背でゆっくり押す。傷つけずに、剥がす。
千鶴さんはそれを横目で見ていたが、何も言わずにまたホールへ戻っていった。
厨房の中で、ムッシュさんがコンロの火を落とす音が響いた。今日の営業終了の合図だ。
ジェフリーさんが、最後にもう一度俺の方を振り向いた。
「おい、蓮。お前、いつでも86なんだからな」
「……はい」
「分かってんなら、せいぜい邪魔にならないようにしろよ」
86。
業界の隠語で「終わり」「売り切れ」「もういない」を意味する言葉だ。お前なんていつでも消せる、という意味だった。
俺は黙って、頭を下げた。
言い返す言葉なんて、持ち合わせていなかった。
全員のあがり時間が来て、一人また一人と裏口から出ていく。最後に残った俺は、もう一度シンクに向かい、流しの中の食洗機のフィルターを掃除する。誰もやらない作業だ。やらなくても怒られない。けれど、明日の朝、誰かが快適に仕込みを始められるように。
「仕込みが八割だ。皿の上は二割しかない」
ムッシュさんがいつか言った言葉が、頭の中を流れる。
俺はその二割を、たぶん一生触れない。
だけど、八割を支えるのは、俺の仕事だ。
シンクから顔を上げると、湿った窓ガラスに自分の顔が映っていた。
冴えない顔。
「俺なんて、ただの作業者だ」
誰もいない厨房に、小さく、本音を落とす。
その瞬間だった。
ぐらり、と床が揺れた。
「地震……?」
冷蔵庫が、ガタガタと音を立てる。鍋が棚から滑り落ちる。蛍光灯が瞬く。だが、これは普通の地震じゃない。
窓の外が、白く光っていた。
いや、白いだけじゃない。光が、厨房の中に、流れこんでくる。
扉の隙間から。換気扇から。シンクの排水口から。あらゆる場所から、白い光が、まるで生き物のように這いこんでくる。
俺は思わず、エプロンのポケットの業務日誌を強く握りしめた。
光が、俺を包む。
最後に見えたのは、ムッシュさんが書き残していた今日のメニューボード。
「本日のスペシャル 仔羊のロースト ミザンプラスはいつも通り」
その文字が、淡く輝いて、視界が真っ白に染まった。




