# 第95話 止められない正しさ
マティアスは、夜にこっそり訪ねてきた。
巡礼者用の安宿。その裏庭。井戸の横。
彼は白い袖の煤を気にして、何度も指で払っていた。払っても落ちない汚れだった。
「聖女エレナは、病人を不浄と呼ばなかった」
マティアスは小さな声で言った。
「それが罪ですか」
「この国では、罪になる」
彼は祈祷書を抱え直した。
「白火教会は、病を焼く。穢れを焼く。異形を焼く。そう教えてきた。そうしなければ、昔は本当に街が滅びた」
シロは黙って聞いた。
ソルバニアにも理由がある。
病で村が消えた時代があり、火で助かった人々がいた。だから火は救いになった。
ただ、その救いが固まりすぎた。
今は、燃やさなくていいものまで燃やす。
「エレナ様は、焼く前に手を当てた。祈った。治った者もいた」
「なら」
「なら、教会の教えが揺らぐ」
マティアスの声がかすれた。
「上層部はそれを恐れている。病は清めるもの。異形は焼くもの。その教えが崩れれば、教会税も、聖火炉も、騎士団も、全部説明が変わる」
シロはリムワードを思い出した。
パン屋。薬師。退役兵。
正しい仕組みでも、仕事と飯が絡むと簡単には変えられない。
「マティアスさんは、止めないんですか」
聞いてから、シロは少し後悔した。
答えは分かっている。
止められないから、こんな夜に来ている。
マティアスは喉を押さえた。
「私には孤児院がある。私が異端になれば、子どもたちも不浄の子になる」
正しい。
臆病ではない。
守るものがあるだけだ。
「救いたいなら、エレナ様の同意を取れ」
マティアスは言った。
「力ずくで連れ去るなら、それは教会と同じだ。救済に同意がないなら、それは救済ではない」
その言葉は、シロの中に残った。
痛い言葉だった。
マティアスは一枚の粗い地図を置いた。
「これは独り言だ。処刑広場の下には、古い排水路がある」
「ありがとうございます」
「礼を言うな」
彼はまた同じことを言った。
止められない正しさが、夜の井戸端に置かれていた。




