# 第90話 影が膝をつく
モルデが膝をついたのは、深夜の下水路だった。
王の間でも、神殿でも、きれいな会議室でもない。
頭上では汚水が流れ、壁には白い菌糸が薄く光っている。遠くで清掃班の木札が鳴り、診療所の窓にはまだ灯りが残っていた。
「なぜ」
シロは思わず聞いた。
モルデは顔を上げない。
「リムワードの裏道、倉庫、人買い、偽薬、放火依頼、反対派の集会。すべて渡す」
「それは助かりますけど、膝は」
「形が必要だ」
まただ。
カトラスもそうだった。
格上の敬意は、周りに誤解を生む。見た目が弱くても、強い者が膝をつけば、皆が勝手に格を上げる。
シロはそれを知っている。
便利だとも知ってしまった。
「僕は王じゃない」
「都市を食う者を、何と呼べばいい」
モルデの声は静かだった。
「お前は剣で勝っていない。金だけでもない。薬で泣く家を眠らせ、仕事で反対派を帳面に乗せ、下水で街の腹に入った。殺していない。だから余計に逃げにくい」
シロは返せなかった。
救った。
確かに救った。
子どもは眠れた。下水は流れた。七十二番は妹を守れた。ユーリスの苦情票は減った。サーラの薬棚には新しい選択肢が増えた。
その全部が、マイコニアなしでは続かない形になり始めている。
「私は影だ」
モルデは続けた。
「殺すことはできる。盗むことも、脅すこともできる。だが、この街の不安そのものを減らすことはできなかった」
彼は、壁を流れる汚水を見た。
「偽薬を売った男を殺したことがある。荷主も殺した。倉庫番も殺した。だが次の月、別の子が死んだ。薬の名前だけ変わっていた」
「減らすだけなら」
「減らした後に記録する。そこが違う」
褒め言葉ではない。
告発にも聞こえた。
それでもモルデは膝をついている。
「私を使え。不安の芽を探す。反乱になる前に拾う。暗殺者ではなく、予兆の記録係として」
「なぜ僕なんです」
シロは聞いた。
「ジルバを殺さなかった」
モルデは即答した。
「偽薬を回収させ、本物に置き換え、誰に売ったかを出させた。七十二番には金ではなく仕事を渡した。反対派には口止めではなく役割を渡した」
言葉が一つずつ、下水路の石に落ちる。
「お前は優しいから危ないのではない。原因に手を入れるから危ない」
シロは少し迷った。
ここで断ることもできる。
だが断れば、ジルバのような者がモルデを使う。あるいは帝国が使う。影は消えず、別の誰かの刃になる。
「ひとつ条件があります」
「何だ」
「殺す前に、僕へ報告してください」
モルデが初めて顔を上げた。
「止めるためか」
「たぶん」
たぶん、という言葉が情けない。
でも今のシロには、それしか言えなかった。
モルデは短く笑った。
「甘いな」
「よく言われます」
「だから危ない」
影潜の暗殺者は、白い菌糸の上で深く頭を下げた。
その瞬間、リムワードの裏地図がシロの中へ流れ込んだ。
倉庫。
抜け道。
借金。
弱み。
怒り。
不安。
都市の影が、マイコニアにつながった。
第2部の最初の報酬は、剣ではない。
街の眠れない夜そのものだった。




