# 第85話 名前のない患者
診療所には、名前のない患者が来た。
正確には、名前を言いたがらない。
若い男。肩に荷運びの跡。指先に縄の擦り傷。ジルバの倉庫で見た顔だった。
サーラが問診票を出す。
「名前」
男は黙る。
「仕事」
黙る。
「住所」
やはり黙る。
ユーリスなら、そこで追い返すかもしれない。帳面に書けない人間は、都市では面倒だからだ。
サーラはため息をついた。
「じゃあ番号。七十二番」
男が顔を上げる。
「名前なしでも診るのか」
「咳は名前を見て出るわけじゃない」
その言い方に、シロは少し救われた。
医師は強い。
男は咳止め胞子を吸い、しばらくして呼吸が落ち着いた。
だが菌糸は別の反応を拾った。
強い不安。
胸の奥に固まった熱。
ジルバに借金がある。荷を一つ失くした。今夜までに返せなければ、妹が代わりに働かされる。
本人が言ったわけではない。
菌糸が体の反応から拾った輪郭と、モルデの情報がつながっただけだ。
シロは迷った。
これはプライバシーだ。
だが放置すれば、妹が危ない。
「七十二番さん」
シロが言う。
男がびくっとする。
「夜の荷運びなら、白い森の清掃仕事があります。日払い。借金の返済先はジルバで合っていますか」
男の顔が青くなった。
サーラがこちらを見る。
その視線は鋭かった。
「どうして分かった」
シロは答えに詰まる。
菌糸で体調と不安を拾った。モルデの情報と合わせた。
それは便利だ。
便利すぎる。
「情報が入りました」
嘘ではない。
だが十分でもない。
サーラは低い声で言った。
「助けるためでも、勝手に心の中へ入るな」
シロは黙った。
正しい。
でも、七十二番の男は泣きそうな顔で頷いた。
「仕事、ください」
救いが必要な人ほど、条件を読めない。
シロは木札を渡した。
白い森清掃班、仮登録。
報酬は、一人の労働者。
代償は、サーラの不信だった。




