# 第82話 未来の大使の教科書
商会の二階に、古い礼法書が積まれた。
貴族の席順。
教会への挨拶。
条約文の決まり文句。
読んでいるだけで眠くなる紙の山だ。
ニコは一冊開いて、三行で閉じた。
「これ、呪いですか」
「会社の規定集に似てる」
「じゃあ呪いですね」
シロは否定できなかった。
だが必要だった。
本体が動けない以上、いずれ表に立つ人間がいる。
カトラスはだめだ。敬意が重すぎて、会談相手が先に折れる。
リゼットはだめだ。相手の血を見て研究の話を始める。
モルデはだめだ。いるだけで暗殺の予感がする。
将来、表の顔になる者が必要だ。
シロはゲーム時代の知識を思い出す。
ソルバニアの聖女エレナ。
本来なら処刑イベントで死ぬ。助ければ、光属性と民衆人気を持った重要キャラになる。
ただし、救済への執着が強い。
掲示板では「加入後の内政が強いが、放置すると宗教国家になる」と書かれていた。
今の自分が言えたことではない。
「その人に読ませるんですか」
ニコが聞く。
「いずれ」
「まだ会ってない人に?」
「会う予定がある」
「それ、怖い言い方です」
確かに怖い。
未来を知っていることは便利だ。
だが相手からすれば、まだ出会ってもいないのに役割を決められている。
シロは礼法書を一冊開いた。
食事の席で上位者が先に杯を取る。
神殿では左膝をつかない。
王族への返答は短く、曖昧にしない。
面倒だ。
でも、これを知らないと交渉の席で笑われる。笑われるだけならいい。無礼として戦争の口実にされる。
「モルデ」
影に向かって声をかける。
「いる」
「各国の礼法に詳しい人材を探してください。敵でもいい。借金持ちでもいい。仕事が欲しい人」
「弱み付きか」
「できれば、弱みより事情がある人」
モルデは少し黙った。
「言い方を変えても、使うものは同じだ」
痛いところを突かれた。
シロは礼法書を閉じる。
未来の大使のために、教科書が積まれていく。
救う前から、役割が用意されていた。




