# 第79話 不安の値段
モルデは、道を選ぶ時に地面を見なかった。
窓の開き方、酒場の声、路地の洗濯物、壁の傷。そういうものを一瞬ずつ見て、どこを通るか決めている。
シロの菌糸が下を見る目なら、モルデは人間の暮らしを見る目だった。
「あの家は今夜危ない」
モルデが言った。
指した先は、普通の長屋だ。扉の前に空の酒瓶が二本。中から低い怒鳴り声。
「病気?」
「借金。父親が仕事を失った。妻がパン屋に頭を下げた。断られた。今夜、誰かが殴られる」
シロは言葉に詰まった。
「よく分かりますね」
「分からなければ死ぬ街だ」
モルデは淡々と言った。
「昔、分からなかった」
珍しく、彼は余計な一言を足した。
シロは黙って待った。
「咳をしている子がいた。安い薬を買った。効かなかった。売った男を殺した。運んだ男も殺した」
路地の奥で、鍋を洗う音がする。
モルデの声は変わらない。
「次の月、別の子が同じ薬で死んだ」
シロは返す言葉を失った。
犯人を殺しても、道が残れば荷は流れる。
人を斬れても、値段と帳面と貧しさは斬れない。
貧民街の不安には、値段がついているらしい。
薬代が払えない不安。
パンが買えない不安。
家賃を待ってもらえない不安。
上司に怒鳴られる不安に似ているが、こちらは明日の寝床が消える。
「不安を減らせば、暴力も減りますか」
「減る」
モルデは即答した。
「だが、不安を全部消す奴は信用するな」
「なぜ」
「不安は危険を知らせる。痛みと同じだ。消しすぎると、火に手を入れても笑う」
シロは足を止めた。
火。
自分は火を食える。火属性のダメージが、バグで回復と増殖に足される。
普通の人間は違う。
危険を危険として感じる必要がある。
「鎮静胞子は少量にします」
「今は、だろう」
モルデは振り返らない。
「権力者は最初、少量と言う。次に便利だと知る。最後に、足りないと言う」
正論だった。
シロは少し嫌になった。
自分がやろうとしていることは、善意だけでは説明できない。
それでも、長屋の中から子どもの泣き声が聞こえた時、歩き続けることはできなかった。
「今夜だけ止められますか」
モルデがこちらを見る。
「金で?」
「食料で」
「明日は?」
「仕事を作る」
「明後日は」
「下水清掃と配送」
モルデは初めて、少しだけ笑った。
「支配者の答えだ」
シロは否定できなかった。
その夜、保存キノコ二袋で、ひとつの家の怒鳴り声が止まった。
報酬は小さい。
だがモルデは、それをきちんと記録した。
不安の芽、一件。
対応、食料。
効果、短期的にあり。




