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# 第69話 救命と処刑



 ナーディルは、まだ諦めていなかった。


 諜報員は、捕まった時点で終わりではない。


 情報を持って帰れないなら、せめて相手の力を測る。


 測れないなら、傷をつける。


 傷もつけられないなら、死に方だけは選ぶ。


 彼は両手を上げたまま、左腰の水袋を落とした。


 水袋が地面で割れる。


 中身は水ではない。


 乾いた砂だった。


 細かい砂が白い菌糸へ広がる。


 湿りを奪う砂。


 ラファンの諜報員が、菌類対策として持つ最低限の道具だ。


 白い菌糸の動きが、一瞬だけ鈍った。


 ナーディルはその一瞬で動く。


 袖口から短剣。


 靴底から針。


 外套の留め具から細い鋼線。


 三つ同時に使った。


 狙いはシロではない。


 カトラスだ。


 あの白い騎士を一瞬でも止められれば、森の外へ走れる。


 そう思った。


 甘かった。


 カトラスは剣を抜かなかった。


 抜く必要がなかった。


 短剣は手甲で受けられた。


 針は踏み砕かれた。


 鋼線は、白い指でつままれた。


 次の瞬間、ナーディルの視界が横に流れた。


 投げられたのだと、背中が地面に叩きつけられてから分かった。


 息が抜ける。


 肺が潰れたように痛い。


「まだ動くか」


 カトラスの声は、怒っていなかった。


 確認しているだけだった。


 それが悔しい。


 敵としてすら、熱を向けられていない。


 ナーディルは歯を食いしばり、砂を握った。


 カトラスの兜へ投げる。


 視界を奪うためだ。


 だが白い騎士は、避けもしなかった。


 砂が兜に当たり、隙間へ入る。


 普通の人間なら目を閉じる。


 だがカトラスには、もう人間の目がない。


 兜の奥で、白い胞子が静かに揺れただけだった。


「目潰しは効かない」


 カトラスは短く言った。


 剣の柄で、ナーディルの右手を打つ。


 骨が鳴った。


 短剣が落ちる。


 次に左膝。


 逃げる足が潰れる。


 最後に喉元へ、剣の背。


 殺さない。


 だが完全に動けない。


 強さの差が、あまりに分かりやすかった。


 ナーディルは地面に伏せたまま笑った。


 乾いた笑いだった。


「化け物め」


「我は主の騎士だ」


「同じだ」


 カトラスは否定しなかった。


 ナーディルは奥歯を噛んだ。


 小さな毒袋が破れる。


 失敗した諜報員の最後の保険。


 これだけは止められない。


 そう思った。


 だが、死ねなかった。


 白い菌糸が口の中へ入り、毒を包んだ。


 喉。


 胃。


 血。


 人間の体内へ入る菌糸を、シロは嫌そうに動かした。


「死なないでください。まだ聞くことがあります」


 ナーディルは咳き込んだ。


 助けられた。


 助けられたのに、救われた気がしない。


 これは治療ではない。


 尋問を続けるための救命だ。


 シロは質問した。


 誰が命じたのか。


 ラファンはどこまで知っているのか。


 帝国の報告書は誰に渡ったのか。


 ナーディルは黙ろうとした。


 だが菌糸が心拍を拾う。


 嘘の前に、体が反応する。


 完全な読心ではない。


 それでも十分だった。


 ナーディルは、必要な分だけ話した。


 話さされた。


 終わった時、空が赤くなっていた。


 シロは長く黙る。


「ありがとうございました」


「帰れるのか」


 分かっていて聞いた。


 シロは目を伏せた。


「帰せません」


 カトラスが前へ出る。


 ナーディルはもう笑わなかった。


 戦って、測った。


 測った上で、勝てないと分かった。


「中立国を、敵に回すぞ」


「行方不明として扱われるでしょう」


 シロの声は静かだった。


「その方が、今は被害が少ない」


 白い菌糸がナーディルの足元から伸びた。


 痛みはほとんどなかった。


 それが嫌だった。


 首を絞められ、息が止まる。


 最後に見えたのは、申し訳なさそうな白い顔だった。


 怪物よりも、人間の管理者に近い顔。


 ナーディルは、それを報告できなかった。



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