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# 第60話 深緑の揺りかご



 つかの間の平穏は、静かに訪れた。


 大きな勝どきはない。


 城もない。


 玉座もない。


 あるのは、白い橋と、消せる道標と、村の鐘と、祈り場の花だった。


 そして、帝国の報告書に載った名前。


 仮称マイコニア。


 シロは白い橋の上に立っていた。


 オルド村長は村の戸口に庇護札を戻している。ニコは道の泥をならし、文句を言いながらも手を止めない。マルクは帳面を広げ、次の取引量を計算している。


 グレンからは、滋養粉の追加注文が来た。


 バルドからは、交渉継続の手紙が来た。


 レオンからは、何も来ない。


 それが逆に不気味だった。


 カトラスは祈り場の前に立っている。


 リゼットはその後ろで、白いキノコを観察しようとして止められていた。


「少しだけ」


「だめ」


「胞子一粒」


「だめ」


 ニコが笑う。


 村の子どもも笑った。


 笑い声がある。


 それは良いことだ。


 だがシロは、森の地下で別の音も聞いていた。


 帝国の砦。


 薄くなった鍋。


 報告書の紙。


 剣を抜かない理由。


 剣を抜く理由。


 全部がつながり始めている。


 白い森は、ただ守っただけではない。


 食料で砦の腹に触れた。


 薬で兵の体に触れた。


 骨壺で遺族の涙に触れた。


 祈り場で村人の感謝に触れた。


 そのどれもが、救いに見える。


 同時に、支配の糸だった。


 シロは本体の奥で、少しだけ黙った。


 最初は生き残りたかった。


 次に村を守りたかった。


 今は、守るための仕組みが増えている。


 仕組みは便利だ。


 便利なものは、やめにくい。


 マルクが橋の上で言った。


「シロ殿。次からは、白い森ではなくマイコニア宛てでよろしいですか」


 シロは少し迷った。


 まだ国ではない。


 だが、名前はもう歩いている。


「仮称で」


「承知しました」


 マルクは笑った。


 仮称。


 逃げ道のある言葉。


 だがシロは知っている。


 仮の名前ほど、気づけば正式になる。


 そして、名前だけが外へ歩くのは危ない。


 白い森を見たことがない者は、噂だけで判断する。


 砦の兵は「眠らされた」と話す。


 遺族は「骨を返された」と話す。


 商人は「腐らない食料がある」と話す。


 村人は「助けてくれる」と話す。


 どれも嘘ではない。


 だが、ひとつだけ聞いた人間は、ひとつだけで白い森を決めつける。


 怪物。


 薬。


 食料庫。


 神様。


 どれも困る。


 シロは森の奥で、ゆっくり考えた。


 待っていれば、また誰かが決める。


 帝国の会議室で、白い森を焼くかどうかが決まる。


 商会の帳面で、白い森の商品が怪物税つきで流れる。


 どこかの教会で、不浄だと説教される。


 それから慌てて動いても遅い。


 前の会社でもそうだった。


 現場を知らない上司が会議で決めたあと、現場だけが残業で尻ぬぐいをする。あれは嫌だ。二度と嫌だ。


 なら、先に見に行くしかない。


 都市の腹が何で困っているのか。


 誰が食料を握り、誰が薬を欲しがり、誰が白い森を怖がっているのか。


 そこを知らないまま守ると言うのは、目を閉じて剣を振るのと同じだ。


「マルクさん」


「はい」


「次の荷に、僕も同行します。分体で」


 マルクの丸眼鏡が少し下がった。


「シロ殿が、森の外へ?」


「本体は動けません。でも、分体なら歩けます」


 自分で言って、シロは少し怖くなった。


 森の外は菌糸が薄い。


 火を食える体でも、街が燃えれば人が死ぬ。


 強いから平気、ではない。


 それでも、行く理由はあった。


「噂だけで決められる前に、こちらから取引相手を見ます。食料と薬の需要も知りたい。あと、白い森を焼きたい人間がどれくらいいるかも」


 マルクはしばらく黙り、帳面を閉じた。


「では、商会の荷としてお連れします。肩書きは薬売りの助手で」


「助手」


「代表が来たとなれば騒ぎになります。助手なら、門番も少し油断します」


 シロは頷いた。


 目立たないように。


 その言葉が、あとで誰かに変な意味で解釈されそうな気はした。


 だが今は、それが一番ましだった。


 夜、村の鐘が鳴った。


 異常なし。


 森の奥で、巨大な白い傘が静かに脈打つ。


 深緑の揺りかごは、もうただの隠れ家ではない。


 まだ国ではない。


 それでも、誰かが地図の端に小さく書いた。


 マイコニア、と。


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