第35話 格上の膝
カトラスは、まだ膝をついていた。
ひび割れた甲冑の膝が、広場の土に沈んでいる。兜の隙間から白い菌糸が垂れ、剣は地面へ立てられていた。
誰より強い者が、誰より低くなっている。
それだけで、広場の意味が変わっていた。
シロは小さく言う。
「立って」
「王の前ですので」
「今は立って」
「はい」
カトラスは、ようやく立った。
それだけで若い騎士が半歩下がる。
ただ立っただけだ。
剣を抜いたわけでも、殺気を向けたわけでもない。
それでもLv92の聖騎士が動けば、広場の空気は押される。
その聖騎士が、シロの小さな声一つで膝をつき、立ち、また姿勢を正す。
セインの水晶板を持つ手が、わずかに震えた。
バルドはそれを責めなかった。
無理もない。
国家最強級の剣が、表示Lv1の白い男に飼い慣らされている。
水晶板より、その事実の方がよほど強い鑑定結果だった。
シロは、少し疲れた。
まだ戦っていない。
ただ、膝をついたり立ったりしているだけだ。
それなのに、空気は戦闘後のように重い。
バルドは、シロをまっすぐ見ていた。
「あなたは何者だ」
「白い森の代表です」
「それだけではないだろう」
「今は、それだけです」
嘘ではない。
本体は始原のおばけきのこ。
表示Lv1。
内部値は壊れている。
カトラスは部下で、村は庇護民で、砦には保存キノコが入っている。
全部を一言で言うのは無理だ。
だから、今は代表。
そういうことにする。
セインが水晶板を見つめたまま言った。
「レベル一の者に、レベル九十二の聖騎士が仕えるなど、ありえません」
「ありえないことが起きています」
シロは答えた。
セインは顔を歪める。
「鑑定が間違っていると?」
「鑑定が、全部を見られていないのだと思います」
今度は少しやわらかく言った。
セインの怒りは弱まったが、不安は強くなった。
人は、自分の道具が役に立たないときに怖がる。
前世でもそうだった。売上表が合わない。勤怠システムが落ちる。いつものやり方で見えないものが出ると、急に現場がざわつく。
この世界の鑑定も同じだ。
数字で見えるから安心している。
その数字が役に立たない。
だから怖い。
バルドはセインを手で制した。
「聞き方を変える。白い森は、何を望む」
これは良い質問だった。
討伐する理由ではなく、交渉する理由を探している。
シロは少し考えた。
「村を守ること。食料と薬の取引を続けること。森を焼かれないこと」
分かりやすく言った。
村。
食料。
薬。
火。
難しい理念はいらない。
バルドは頷いた。
「帝国の税は」
「妨げません」
「兵への保存食は」
「必要なら売ります」
「値は」
丸眼鏡の商人マルクが、すぐに前へ出た。
「塩、布、鉄鍋、針、油での支払いを希望します。金でも可能ですが、村で使える品を優先します」
バルドはマルクを見た。
「お前が窓口か」
「今のところは」
「怖くないのか」
「怖いです」
マルクは即答した。
「しかし、道は安全で、品は売れます」
バルドは、少しだけ苦い顔をした。
現実的すぎる答えだったからだ。
怖いからやめる。
それなら簡単だ。
だが怖くても得をする。助かる。腹が満ちる。
その場合、人はやめない。
バルドはグレンを見た。
「砦は、この品を必要としているのか」
グレンは固まった。
責任を問われている顔だ。
シロは、少し気の毒になった。
グレンは悪人ではない。現場を止めないために怪しいものを使っただけだ。それは褒められることではないが、責めるだけでも違う。
グレンは、汗をぬぐった。
「必要です」
言った。
言ってしまった。
「干し肉が足りません。咳で眠れない下働きもいます。保存キノコと滋養粉があると、現場は助かります」
バルドは黙った。
その沈黙は長かった。
若い騎士が口を挟みかけたが、バルドが視線で止めた。
シロは、グレンの言葉を聞いていた。
助かります。
その一言は強い。
正義より強い時がある。
政治より先に、現場の鍋がある。
バルドは、ゆっくり言った。
「分かった。報告には、必要性も書く」
グレンの肩が少し下がった。
救われた顔だった。
シロは、それを見て少しほっとした。
同時に、報酬も分かった。
帝国の報告書に、危険だけでなく必要性が載る。
これは大きい。
危険な森。
だが、保存食と薬は必要。
その一文だけで、討伐の判断は鈍る。
カトラスが静かに言う。
「王よ。敵が王の価値を認めました」
「敵ではない」
その訂正に、カトラスは深く頭を下げた。
「では、まだ敵ではない者として扱います」
バルドの眉が動いた。
今の一言で分かった。
この剣聖は、自分の判断で剣を収めているのではない。
白い代表の言葉があるから、収めている。
もしその言葉が逆になれば、広場はすぐ戦場になる。
バルドは、若い騎士が半歩下がったことを叱れなかった。
むしろ下がれたなら、まだ賢い。
「では、まだ敵ではない者」
「言い方」
ニコが、また口を押さえた。
バルドの眉が動く。
だが、怒りはしなかった。
むしろ、シロとカトラスのやり取りを見て、少し戸惑っている。
強大な存在に見える。
しかし会話は、妙にずれている。
そのずれが、笑いになりきらない。
なぜなら、カトラスが本気だからだ。
格上の膝。
その一度で、白い森は戦わずに相手の態度を変えた。
シロは、その便利さを覚えてしまった。
少し嫌だった。




