第30話 ただの森ではない
丸眼鏡の商人マルクの三度目の馬車は、前より大きかった。
荷台には塩、布、針、鍋、油、そして小さな鐘が積まれている。
鐘は村用だった。
火、血、悲鳴、高熱。菌糸が拾う異常は増えたが、人間の手で鳴らす合図も必要だ。誰でも使えるものを置く。難しい仕組みだけでは、疲れた人間は動けない。
シロは鐘を見て頷いた。
「よい品です」
「安くはありません」
「乾燥キノコを増やします」
「ありがたい」
マルクの返事は早かった。
以前より、恐怖より計算が前に出ている。
それも変化だった。
白い橋の近くには、元盗賊の作業員が二人立っている。灰色の上着に白い紐。胸元の木札。見張りというより、案内係に見える。
畑の外には菌騎士が二体。
動かない。
ただ立っている。
それだけで山犬は近寄らない。
村の家々には庇護札。
炊き場には乾燥キノコ。
道には白い道標。
砦には保存食と滋養粉。
ひとつひとつは小さい。
集めると、もう村の生活の形が変わっていた。
オルド村長が広場に人を集めた。
小さな鐘を吊るすためだ。
村人たちは、シロを見てから鐘を見る。白い肌、黒い髪、古い外套。何度見ても人間に見えるが、近くで見ると冷たい。村人はもう、その違和感にも慣れ始めていた。
「この鐘は、森へ知らせるためのものです」
シロは説明した。
「火事。魔物。大けが。高い熱。そういう時に鳴らしてください」
村の男が手を上げる。
「夫婦喧嘩は?」
「鳴らさない」
笑いが起きた。
こういう笑いは大事だ。森の仕組みが怖すぎると、人は使えない。少し笑えるくらいが、生活に入る。
母親が聞いた。
「夜でも?」
「夜でも」
「森の方は眠らないのですか」
シロは一瞬迷った。
分体は眠るふりができる。本体は眠らない。正確には、意識を薄くするだけだ。
「誰かは起きています」
嘘ではない。
カトラスが後ろで深く頷いた。
「王の御目は常に民を」
「言わなくていい」
村人たちがまた笑う。
笑いながら、少し怖がっている。
それでいいのかもしれない。
鐘が吊るされた。
試しに鳴らすと、乾いた音が森へ広がった。
同時に、菌糸が振動を拾う。
音と菌糸。
人間の道具と、森の感覚。
両方がつながった。
その日の午後、マルクは砦からの注文を伝えた。
「乾燥キノコ、次は五十束。滋養粉は二十包」
オルド村長が目をむいた。
「そんなに作れるのか」
村の女たちが顔を見合わせる。
元盗賊たちは、作業量が増える気配に肩を落とした。
シロは森の地下へ意識を伸ばした。
水分。
腐葉土。
魔獣の骨。
盗賊の残した皮袋。
増やせる。
無理ではない。
「作れます」
村がざわついた。
作れる。
その一言は、村人には収入に聞こえた。
マルクには利益に聞こえた。
砦には補給に聞こえるだろう。
カトラスには兵站に聞こえている。
シロには、支配域の拡大に聞こえた。
同じ言葉なのに、聞く者で意味が違う。
勘違いというより、それぞれの都合だった。
「ただし、村の食料を減らさない」
シロは続けた。
「出荷は余剰分だけ。病人用の分は先に残す」
オルド村長が深く頷いた。
「それなら、皆も納得する」
マルクは少し残念そうだったが、すぐ帳面に書き込んだ。
「長く続けるなら、その方がよい」
この男は、損得が分かる。
短く搾るより、長く吸う。
言葉にすると嫌だが、商売も統治も似ている。
夕方、マルクは馬車に乗る前、白い橋の上で振り返った。
「シロ殿」
「はい」
「この森を、何と呼べばよろしいですか」
シロは黙った。
名前。
シロの時と同じだ。
村人は「森の方」と呼ぶ。
マルクは「街道沿いの森」と呼ぶ。
砦は、たぶん「怪しい保存食の出どころ」と呼んでいる。
マイコニア。
その名は、まだ早い。
ゲーム時代のギルド名のようで、今口にすると軽い。だがいつか必要になる。
「今は、白い森で」
マルクは頷いた。
「白い森」
帳面に書いた。
その文字を見た瞬間、シロは妙な気持ちになった。
正式な国名ではない。
ただの通称だ。
それでも、外の帳面に森の名が載った。
これは報酬だ。
土地でも金でもない。
名前。
他人の記録に残る名前。
馬車が走り出す。
白い道標の間を抜け、修繕された道を進み、やがて森の外へ消えた。
シロは橋の上に残った。
村からは夕食の匂いがする。
炊き場ではキノコ粥が煮えている。
畑の外では菌騎士が立ち、灰色の上着の元盗賊が道具を片づけ、家々の戸口で庇護札が揺れる。
救った。
守った。
食べさせた。
薬も渡した。
その結果、村はもう森なしでは回りにくい。
シロは、それを否定できなかった。
白い森。
ただの森ではない。
だが、まだ国でもない。
その中間に立っていることが、いちばん落ち着かなかった。
夜になり、村の鐘が風で小さく鳴った。
菌糸がその音を拾う。
シロは本体の奥で、静かに通知を開いた。
異常なし。
それが、今夜の報酬だった。
同じ頃、砦の兵站係グレンは、誰にも見せない伝票の隅に小さく書いた。
白い森。
保存食、五十束。
滋養粉、二十包。
領主の地図には、まだただの危険地帯として塗られている場所。
だが現場の帳簿では、すでに補給元だった。
シロはその文字を知らない。
知らないまま、森の奥で次の胞子床を増やしていた。
いつか、白い森では足りない名が必要になる。
大菌帝国マイコニア。
その種は、この夜、まだ誰にも宣言されないまま帳簿の行間に落ちた。




