第29話 森の庇護民
二軒だけ、庇護札を受け取らなかった家があった。
一つは老人の家。
もう一つは、若い夫婦の家だった。
理由は分かる。
見られたくない。
怪物に頼りたくない。
砦の領主を裏切るようで怖い。
どれも間違っていない。
シロは無理に勧めなかった。
だが、菌糸は村の地下にある。庇護札がなくても、完全に見えないわけではない。その事実が、シロの中で小さく引っかかっていた。
その家の子が、熱を出した。
若い夫婦の娘だった。
夜、母親がオルド村長の家へ走った。裸足だった。泥が足についている。
「薬を」
それだけ言って、泣いた。
オルド村長はシロを呼んだ。
シロは白い外套のまま、夫婦の家へ向かった。戸口に庇護札はない。菌糸の印もない。ただの木の扉だった。
中は狭い。
藁の寝台に、女の子が寝ている。顔が赤い。呼吸が浅い。父親は壁際に立ち、拳を握っていた。
「札は受けていない」
父親が言った。
怒りではない。
恥だった。
シロは、その顔を見て少し困った。
ここで恩を売るのは簡単だ。
助ければ、家は森に入る。
だが、その考えが先に浮かんだ自分が嫌だった。
「薬は出します」
シロは言った。
「代わりは」
「後で話します」
母親が泣きながら頭を下げる。
父親は何か言いたそうにして、言えなかった。
咳止め胞子は熱そのものを消す薬ではない。だが呼吸を楽にし、眠らせることはできる。水に溶かし、少量を飲ませる。額には冷たい布。体を温めすぎない。
シロは手順を母親へ説明した。
「一度に多く飲ませない。眠る。腹が空く。起きたら粥」
「粥ですね」
「薄く。少しずつ」
「少しずつ」
母親が繰り返す。
こういう時、人は忘れる。だから短く、何度も。
女の子の呼吸が、少しだけ落ち着いた。
すぐ治るわけではない。
それでも、母親の肩から力が抜けた。
夜明け前、女の子は眠った。
父親は戸口で、ずっと座っていた。シロが外へ出ると、彼は立ち上がり、深く頭を下げた。
「庇護札を、いただきたい」
予想していた言葉だった。
それなのに、シロは胸の奥が重くなった。
「娘さんが落ち着いてからでいい」
「今で」
父親の声は固かった。
「今でなければ、また意地を張る」
それは自分への怒りだった。
シロは木札を渡した。
父親はそれを両手で受け取る。白い菌糸の印が、朝の薄暗さで淡く光った。
「森に見られるのは、今でも嫌です」
「はい」
「だが、娘が死ぬ方が嫌です」
「はい」
シロは短く答えた。
余計なことを言うと、全部が安くなる気がした。
その日の昼、残っていた老人の家にも庇護札がかかった。
理由は孫ではなかった。
老人は、自分でオルド村長の家まで来た。
「わしだけ札なしでは、何かあった時に村の者が気にする」
老人は渋い顔で言った。
「迷惑をかけるのも嫌だ」
個人の自由が、共同体の空気に押された。
誰も強制していない。
だが、全員が札を持つ中で一人だけ持たないのは、思ったより重い。
シロはそれを見て、少し寒くなった。
分体の体温はもともと低い。
それでも寒かった。
全戸加入。
森の帳簿に、そう記された。
村の名前の横に、白い印がつく。
庇護民。
その言葉を最初に使ったのは、カトラスだった。
「王よ。村は森の庇護民となりました」
「保護対象でいい」
「庇護民」
「言い換えない?」
「民です」
カトラスの声は静かだった。
死んだ騎士の声なのに、妙に確信がある。
村人たちは、その言葉を聞いても怒らなかった。
むしろ安心した顔をした者さえいる。
民。
誰かの民になることは、自由を失うことだ。
同時に、見捨てられないという意味でもある。
シロは前世の会社を思い出した。
社員証を持つと縛られる。
だが保険証も出る。
有給は取りにくいが、給料は振り込まれる。
人は完全な自由より、明日の生活を選ぶことがある。
それを責められるほど、自分は強くなかった。
夜、村の家々に白い木札が揺れていた。
女の子の家にも。
老人の家にも。
全部の家に。
菌糸網は、その全てを覚えた。
村人の呼吸。
鍋の湯気。
泣き疲れた母親の寝息。
老人が戸締まりを確かめる音。
シロは、その情報を必要なものだけに絞った。
血。
火。
悲鳴。
高熱。
項目が一つ増えた。
高熱。
救うための監視。
そう言えば聞こえはいい。
実際、救える。
だからこそ、止めにくい。
その日の夕方、オルド村長は古い村札を外した。
領主の徴税印が焼きつけられた、黒ずんだ板だ。
代わりに白い庇護札を戸口の横へ掛ける。
領主の村であることは変わらない。
税も、まだ領主へ納める。
けれど村人が夜に見る印は、もう領主のものではなかった。




