第24話 庇護契約
オルド村長の家に、粗末な机が運び込まれた。
机の上には麦の帳面、塩袋、乾燥キノコの束、そして薄い木札が並んでいる。
木札には、白い菌糸で小さな印が浮かんでいた。
契約書の代わりだ。
紙は高い。インクも少ない。村人の多くは字が読めない。なら、読めない紙より、見れば分かる木札の方がいい。
シロはそう考えた。
カトラスはそれを「王印」と呼んだ。
やめてほしい。
「では、確認します」
シロはオルド村長、村の代表者三人、ニコ、丸眼鏡の商人マルクの前で話した。マルクは立会人のような顔をしている。完全に商売の匂いを嗅ぎつけていた。
「森は、村の外周を巡回します。山犬、魔物、盗賊を近づけません」
村人たちが頷く。
「村は、森に情報を渡します。誰が来たか、何が足りないか、病人がいるか」
これにも頷く。
「森は、食用キノコと咳止め胞子を出します」
頷きが早くなった。
「村は、乾燥キノコを作り、橋と道を維持します」
ニコが、そっと顔をしかめた。
「元盗賊も含めて」
「はい」
ニコは小さく返事をした。
シロは木札を一枚持ち上げた。
白い菌糸の印が、指先で淡く光る。
「これを持つ家は、森の庇護を受けます」
村の女が手を上げた。
「持たない家は?」
自然な質問だ。
こういうところを曖昧にすると、後で揉める。前世の会社でも、ルールがふわっとした仕事ほど、最後に現場へ責任が落ちてきた。
「食料と薬は受けられます。ただ、巡回の優先順位は下がります」
部屋が静かになった。
言ってから、シロは少し嫌な気分になった。
脅しているつもりはない。
全部を同じ優先度では守れないだけだ。
だが、受ける側から見れば圧力である。
マルクが小さく咳払いした。
「つまり、加入すると早く助けてもらえる」
分かりやすく言い換えた。
村人たちの緊張が少し緩む。
シロは内心でマルクに感謝した。言葉の角を取るのがうまい。こういう人間は、外交で使える。
「税はどうなります」
オルド村長が聞いた。
「麦は徴税人へ。森には、乾燥キノコと道の維持を」
「二重取りでは」
村人の男が低く言った。
正しい。
森が守り、砦も税を取る。村からすれば、上が一つ増えるだけにも見える。
シロは少し迷った。
ここで「守ってやるから払え」と言えば早い。
だがそれでは、ただの領主だ。
「砦の徴税人が守らなかった分を、森が守ります」
男の眉が動く。
「つまり?」
「徴税人が山犬を追い払いますか。橋を直しますか。子どもの咳を止めますか」
男は黙った。
村の女が、手元の木札を見た。
「砦には麦。森には仕事とキノコ」
マルクがまた言い換える。
「払うものが違う、ということですな」
「そうです」
シロは頷いた。
説明は二度、三度あった方がいい。
森は麦を奪わない。
森は仕事と情報をもらう。
代わりに守る。
単純に言えばそれだけだ。
「木札を持つと、森に見られるのか」
今度は老人が聞いた。
部屋の温度が下がった気がした。
シロは嘘をつけなかった。
「危険があれば、分かります」
「危険がなければ」
「詳しくは見ません」
それも本当だ。
ずっと全員の生活を覗いているわけではない。そんなことをしていたら、シロの意識が疲れる。情報は多ければいいものではない。会社の共有チャットと同じだ。全部追うと何もできなくなる。
「詳しくは、ですか」
老人は苦い顔をした。
「必要があれば見る、ということですな」
「そうです」
正直に答えた。
村人たちは黙った。
助かる。
でも見られる。
守られる。
でも知られる。
簡単な善意ではない。
シロは、その沈黙が少し痛かった。
やがてオルド村長が木札を一枚取った。
「わしの家は受けます」
最初の一枚だった。
次に、咳をしていた子どもの母親が取る。
「うちも」
山犬に襲われかけた畑の男も取った。
「畑を守ってくれるなら」
一人、また一人。
木札が減っていく。
反対した老人も、最後には受け取った。指が震えていた。
「孫がいるのでな」
その一言で、シロは何も言えなくなった。
自由より安全。
気味の悪さより薬。
監視より孫。
人が選ぶ理由は、大きな思想ではない。家にいる誰かの寝息だ。
全戸ではない。
二軒だけ、木札を取らなかった。
シロはその二軒の名前も帳簿に入れた。
排除ではない。
保留。
だが帳簿に載った時点で、もう無関係ではなかった。
会合が終わると、マルクが近づいてきた。
「シロ殿。これは、なかなか強い仕組みです」
「強い?」
「剣で脅していない。けれど、入らない理由が弱くなる」
マルクは木札を見た。
「商売も同じです。安くて早くて便利な店ができると、古い店は悪人でなくても負ける」
シロは妙に納得した。
森は、便利な店になりつつある。
それはたぶん、魔王より厄介だ。
夜、村の家々の戸口に白い木札がかかった。
小さな印。
ただの札。
だが菌糸網は、その位置を全部覚えた。
森の庇護契約。
最初の条約は、羊皮紙ではなく、粗い木片から始まった。
その夜、木札を取らなかった二軒だけが、戸を少し細く開けて外を見ていた。
隣の家には白い印がある。
向かいの家にもある。
火事が起きた時、山犬が出た時、子どもが熱を出した時。
鐘より先に森が気づく家と、気づかれない家ができた。
誰も脅していない。
それでも村の中に、白い札を持たない理由は一晩で重くなった。




