第21話 丸眼鏡の商人
商人の馬車は、森の外れで止まっていた。
車輪の片側が泥にはまり、馬が鼻を鳴らしている。護衛が三人。革鎧に短槍。荷台には布袋と木箱。金属の匂いは、箱の留め具と護衛の剣から来ていた。
シロは白い外套の襟を押さえながら、道へ出た。
ニコが後ろで小さく言う。
「旦那、笑ってください。商人は笑顔に弱いんで」
「旦那はやめろ」
「シロさん」
「それでいい」
シロは口角を上げた。
護衛が一歩引いた。
まずい。
笑顔の調整は、まだ難しい。
商人はマルクと名乗った。丸い眼鏡をかけた、四十手前の男だった。腹は少し出ているが、目はよく動く。道、橋、盗賊、シロの手袋。全部を見ている。
「旅の方、ですかな」
「シロと言います」
マルクの眉が動いた。
「シロ殿。この森の……代表で?」
代表。
会社なら面倒な肩書きだ。責任だけ重く、決定権は上にある。だがこの場合、上も自分だった。
「話を聞く役目です」
そう答えると、マルクは少しだけ安心した顔をした。
シロは地下の菌糸で馬車の周囲を探った。護衛の足は震えている。マルクの指は、帳面を押さえていた。戦う気はない。少なくとも今は。
「では率直に。ここは、通れる道ですかな」
「通れます」
「盗賊が出ると聞きました」
ニコが、背中で変な咳をした。
シロはちらりと見た。
ニコは目をそらした。気まずそうだった。普通なら縛り首になっている人間が、今は道案内をしている。人材再配置という言葉にするときれいだが、現実には汗だくの元犯罪者である。
「今は出ません」
「なぜ」
「働いているからです」
マルクの眼鏡がずれた。
「は?」
護衛の一人が、思わずニコを見た。
ニコは気まずさに耐えきれず、言った。
「森で働くと、飯が出るんです」
説明が雑だ。
だが分かりやすい。
「殺されるより、道を直す方がいいそうです」
シロが補足すると、マルクは口を閉じた。
正義とか更生とか言うより、飯と命の方が早い。ブラック企業の研修資料より、給料日に振り込まれる一万円の方が人を動かす。それと同じだ。
「なるほど。盗賊を雇った、と」
「そうとも言えます」
「危なくは?」
「監視しています」
マルクの視線が、森の奥へ流れた。
木の根元に、白い菌糸が薄く光っている。隠すには遅かった。
「監視、ですか」
「道で人が死なないように」
それは本当だった。
ただし、道で誰が何を運んでいるかも分かる。誰が嘘をついたかも、だいたい分かる。
マルクは眼鏡を直した。逃げたい顔をしている。けれど荷台から漂う小麦の匂いが、彼をここに縛っていた。
「この先の村に、干し肉と塩を売りに行く予定でした」
「村は食料が足りています」
マルクの肩が落ちた。
あからさまに落ちた。
少し悪い気がした。
「ただ、塩は必要です」
マルクの顔が戻る。
「塩はあります」
「こちらは、食用キノコと咳止めの胞子を出せます」
護衛の一人が鼻で笑った。
「キノコと粉で塩を買うってのか」
その瞬間、森の影がわずかに動いた。
カトラスだ。
ひび割れた甲冑の隙間から、白い菌糸が覗いている。剣に手をかけていた。
シロは片手を上げた。
「いい」
カトラスは止まった。
護衛は気づいていない。マルクだけが、気づいた。眼鏡の奥の目が乾いた。
「粉、と言われましたが」
マルクが慌てて話を戻す。
「咳に効くのですかな」
「村の子どもには効きました」
「実例があるなら、値がつきます」
急にマルクの声が現実的になった。
恐怖より利益。
人間らしい。
シロは少しほっとした。こういう相手は分かりやすい。損を嫌い、得を拾う。上司の顔色より数字を見るタイプだ。
「試供品を渡します。効けば次から塩と布を持ってきてください」
「効かなければ?」
「来なくていい」
マルクは瞬きした。
「それだけで?」
「それだけです」
嘘はない。
効かなければ、来ない。
効けば、向こうから来る。
マルクは帳面を開いた。湿気で端が曲がった紙に、羽ペンで数字を書き始める。
その手が途中で止まった。
「シロ殿。あなた方は、税を取りますか」
「まだ決めていません」
「まだ」
マルクは小さく復唱した。
その一言で、彼の中の計算が変わったのが分かった。
ただの怪しい森なら、避ければいい。
だが税を考える森は、領主に近い。
道を直し、盗賊を働かせ、村へ食料を出し、薬を売る。
戦うより面倒で、戦うより重要なもの。
取引。
シロは、前の世界で何度も見た契約書を思い出した。小さい文字で責任範囲が書かれた、読むだけで眠くなる紙。あれが、人を縛っていた。
この世界でも同じだ。
剣より帳簿の方が、長く効く。
「まずは通行を認めます」
「通行料は」
「今回は不要」
マルクは笑った。
今度の笑顔は本物に見えた。
「次回は?」
「品で払ってください。塩、布、針、鍋。村で足りないものを」
「金ではなく?」
「金は食べられない」
ニコが、後ろでうなずいた。
マルクはしばらく黙り、やがて帳面を閉じた。
「分かりました。丸損になるよりは、よほどよい」
その言い方に、少しだけ笑いそうになった。
マルクは結局、得で動く。
怖がっていても、計算する。
それでいい。
シロは荷台へ白い包みを二つ置いた。食用キノコの乾燥品と、咳止め胞子。
マルクはそれを、宝石でも毒でも触るように慎重につまんだ。
「これが効けば、戻ります」
「待っています」
その言葉を口にしてから、シロは少し驚いた。
待っている。
動けない本体が、誰かの来訪を待つ。
それは以前なら、ただの孤独だった。
今は、物流の予定だった。
馬車が白い橋を渡っていく。
車輪の音が遠ざかるたび、森の下の菌糸がその重さを記録した。
最初の人談は終わった。
報酬は、塩ではない。
外の道が、こちらへ曲がったことだった。




