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115/117

# 第115話 自我という呪い



 マティアスは、広場の中央へ歩いた。


 足元の菌糸が、彼を避ける。


 避けているのではない。


 エレナがそう命じている。


 彼だけは、まだ完全に抱かれていない。


 旧白火教会の司祭。


 同意なき救済への反論者。


 そして、王都がどう変わったかを見続ける証人。


「エレナ」


 マティアスは彼女の名を呼んだ。


 聖女様、とは呼ばなかった。


「この人たちは、同意していません」


 エレナは静かに首を傾けた。


「火に焼かれることにも、同意していませんでした」


「だからといって、心を奪っていい理由にはならない」


「奪っていません」


 エレナは眠る母親の肩に触れた。


 母親は微笑んだまま、子どもを抱いている。


「痛みを取りました。不安を鎮めました。飢えないように繋げました。孤独にならないようにしました」


「それを、奪ったと言うんです」


 マティアスの声が荒れた。


 初めてだった。


 彼はいつも喉を押さえ、言葉を選ぶ人間だった。


 だが今は、選ぶ余裕がない。


「人は怖がります。迷います。間違えます。裏切ることもある。それでも、自分で祈るから人間なんです」


 エレナの瞳が揺れた。


 一瞬だけ。


 彼女の中に、商家の娘だったころの顔が戻る。


 薬代を払えない客へ、どう言えば傷つけずに待ってもらえるか悩んでいた少女。


 だが、その揺れはすぐに消えた。


「その人間の仕組みが、救えなかったのです」


 静かな断言だった。


「私は見ました。薬棚が空なのに、教義の棚だけは満ちている場所を。寝台が足りないのに、火だけは足される場所を。救える子どもを、穢れとして遠ざける場所を」


 彼女はシロを見た。


「主様は違いました。痛みを引き受けて、火を食べ、道を作りました。まだ未完成です。だから私が完成させます」


 シロはぞっとした。


 完成。


 その言葉が、一番怖かった。


 彼は神ではない。


 ゲームのバグ職に転生した元会社員だ。


 だがエレナは、足りない救済を埋めるために、シロを神の形へ押し上げようとしている。


 自分の信仰の空白に、シロをはめ込んでいる。


「僕は、そんなものになりたくない」


 小さなキノコの分体で、シロは言った。


 声は弱かった。


 王都全体を包む菌糸の中心にいるのに、弱かった。


 エレナは優しく膝をつく。


 シロの小さな傘へ、指を伸ばす。


 触れる直前で止めた。


「なりたいかどうかではありません」


 彼女は微笑んだ。


「必要なのです」


 その言葉は、どこかで聞いたことがある。


 会社で。


 会議で。


 誰かの都合で、誰かの人生を曲げる時の言葉だ。


 必要だから。


 シロは、その言葉を嫌っていたはずだった。


 なのに今、自分の菌糸が王都を動かしている。


 マティアスは地面に膝をついた。


 祈りではない。


 敗北だった。


「なら私は、見張ります」


 彼はかすれた声で言った。


「あなた方の救済が、次の火になるまで」


 エレナは頷いた。


「お願いします」


 それが、彼への慈悲なのか罰なのか、シロにはもう分からなかった。


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