# 第107話 エレナの菌化願い
夜、エレナは自分からリゼットの作業台へ来た。
焦げた白衣ではなく、清潔な布をまとっている。
それでも袖の一部だけは、あえて焦げたまま残していた。
忘れないためだ。
焼かれたことを。
人間社会が、自分をどこへ置いたのかを。
「治療胞子を、私の体に定着させる方法はありますか」
リゼットの手が止まった。
シロも、地下で思わず反応した。
「何を言っているんですか」
「私は、主様の治療をより遠くへ届けたいのです」
「主様はやめてください」
「では、シロ様」
「そこじゃなくて」
エレナは真面目だった。
真面目すぎて怖い。
「私は商家の娘でした。薬の値段で泣く人を見ました。教会へ入り、祈りで救えると思いました。でも、祈りは在庫を増やしません。寝台も増やしません。上の方々は、足りないものを火でごまかしました」
彼女は自分の胸に手を当てた。
「なら、私が在庫になります」
「言い方」
シロは反射で突っ込んだ。
だが笑えなかった。
エレナは、自分の体を薬棚にしようとしている。
「菌化は、戻れないかもしれません」
リゼットが珍しく先に注意を言った。
「体温、味覚、痛覚、睡眠、祈りの感じ方。全部変わる可能性がある」
「構いません」
「人間でいたい気持ちは?」
エレナは少しだけ黙った。
その沈黙は、残っている人間性の形だった。
「あります」
小さな声だった。
「あります。でも、人間でいた結果、私は処刑台へ立ちました。病人は火の前へ並びました。救える力を強められるなら、私はそちらを選びます」
シロは嫌な感覚を覚えた。
これは愛ではない。
恋でもない。
エレナはシロを男として見ていない。
神として完成させようとしている。
その神に近づくために、自分の体を差し出そうとしている。
「僕は神じゃありません」
シロは言った。
「分かっています」
エレナは即答した。
「今は、まだ」
返事になっていない。
リゼットは小瓶を置いた。
「段階的にする。まずは治療胞子への耐性。次に共生。完全な菌化は後」
「お願いします」
エレナは頭を下げた。
その姿は、祈りに似ていた。
ただし、祈る相手は白火ではない。
白い森の奥で動けない、巨大な菌糸の王だった。
菌神教という言葉は、まだ誰も口にしていない。
けれど、その芽はこの夜に生えた。
扉の外で、床板がきしんだ。
シロは菌糸を伸ばし、廊下に立つ男を見た。
派手な上着。
色の合わない靴。
割れた冒険者証。
腰には短剣があるが、柄の装飾だけが妙に高い。実用品ではない。見栄だ。
男は気まずそうに笑った。
「聞くつもりはなかったんですがね」
「誰ですか」
リゼットが瓶を隠す。
男は胸に手を当て、大げさに礼をした。
「バッカス。元冒険者です。盗賊の真似もしました。賭場で全部すって、仲間にも見捨てられまして」
「自白が早い」
「楽になる道を探している者は、話が早いんです」
バッカスはエレナを見た。
その目は笑っていなかった。
「お嬢さんの話を聞きました。祈りで強くなれる。体を変えれば、もっと遠くまで救える。そういう話ですよね」
「違います」
エレナはすぐ否定した。
「楽をするためではありません」
「ええ。あなたは違うでしょう。でも私は違う」
バッカスは肩をすくめた。
「盗賊は殴られる。冒険者は死ぬ。賭場は負ける。真面目に働くには、もう借金が多すぎる。なら、菌になって強くなれるなら、私はなりたい」
シロは少し黙った。
信仰を、近道として聞く人間がいる。
献身を、逃げ道として見る人間がいる。
それを責めるのは簡単だ。
だが、飢えと借金と恐怖の前では、人は美しい理由だけで選ばない。
「菌化は、楽ではありません」
シロは言った。
バッカスはにやりと笑う。
「では、今より苦しくなければいい」
その返事は、祈りではなかった。
救いでもなかった。
ただ、崖の縁にいる人間の取引だった。




