# 第103話 商家の娘の救済
エレナは貴族の娘ではなかった。
ソルバニア南市で布と薬草を扱う、小さな商家の娘だった。
父は帳簿に強く、母は値切りに強い。
エレナが最初に覚えた祈りは、聖句ではなく、薬代を払えない客へどう言えば傷つけずに待ってもらえるかだった。
「今月は半分でいいです。残りは来月で」
子どものころのエレナは、そう言って母に叱られた。
店は施療院ではない。
全部を安くすれば潰れる。
潰れれば、誰にも薬を売れなくなる。
その理屈は正しい。
でも、熱で震える子どもを前にすると、幼いエレナは正しさだけでは足りないと思った。
だから教会へ入った。
祈りなら、貧しい人にも渡せると思った。
治癒の奇跡を覚えれば、薬代を払えない人も助けられると思った。
聖女と呼ばれるようになった時、彼女は少し恥ずかしかった。
自分はただ、店先で見たあの子どもの熱を忘れられなかっただけだからだ。
その彼女を、教会は処刑台へ立たせた。
病人を穢れと言いたくない。
焼く前に話を聞きたい。
その程度の言葉で。
白い森の簡易寝台で、エレナは昔のことをシロに話した。
白衣の袖は焦げている。髪にも少し灰が残っていた。
「私は、教会なら救えると思っていました」
「救っていたんじゃないですか」
「少しは」
エレナは小さく笑った。
その笑みは、ひどく疲れていた。
「でも、足りませんでした。薬草院の棚は空になります。孤児院の寝台も足りません。上の方々は、それでも火を焚きます。祈りを増やせば人は救われる、と」
シロは返事に困った。
現場は足りない。
上は精神論を増やす。
分かりやすすぎて嫌だった。
「主様」
エレナは初めて、その呼び方をした。
シロは少し固まった。
「その呼び方は、ちょっと」
「あなたは、焼かずに助けました」
「同意を取っただけです」
「それが、どれほど大きいことか分かりますか」
エレナの声が震えた。
怒りではない。
救われた人間が、救われた事実に追いつけずに震えている声だった。
「私は人間社会を信じていました。商家も、教会も、騎士も、帳簿も、祈りも。全部、誰かを助けるためにあるはずだと」
彼女は焦げた袖を見た。
「でも、その全部が私を焼きました」
シロは何も言えなかった。
ここで慰めを言えば、嘘になる。
人間社会は全部悪ではない。
だが、エレナを焼いたのも人間社会だ。
「あなたを愛しているわけではありません」
エレナは急に言った。
シロは変な間を置いた。
「急に何の話ですか」
「私があなたに縋る理由です。恋ではありません。恩だけでもありません」
エレナは、真っすぐシロを見た。
「私は、救済の力を完成させたいのです。人間が足りないなら、人間でないものに手を伸ばします」
その瞳に、まだ狂気はなかった。
ただ、折れた信仰の断面があった。
シロは、うまく返せなかった。
励ます言葉も、止める言葉も、どちらも違う気がした。
ただ一つだけ、仕事の判断としては分かった。
エレナは交渉ができる。
人の痛みを言葉にできる。
人が何を恥じ、何を恐れ、何を差し出せば救われたと思うのかを知っている。
シロには、そこまで分からない。
分かるふりはできる。
静かに頷くこともできる。
だが中身は、せいぜい疲れた会社員の段取りだ。
火事なら逃がす。
怪我人なら寝かせる。
上が怒るなら報告書を整える。
その程度でしかない。
だからシロは言った。
「人前で話すことは、エレナさんに任せます」
エレナは、祈りを受け取るように目を伏せた。
「主は、私に民の声を預けてくださるのですね」
「そこまで大げさでは」
「お任せください」
また拡大された。
シロは少し困った。
だが困っただけで、訂正はしなかった。
訂正すると、また会議が長くなる。
前世の悪い癖だ。
分かった顔で頷いて、後で現場が何とかする。
その現場が、今はエレナだった。




