# 第102話 堕ちた聖女の布告
ソルバニアの鐘は、夜明け前から鳴っていた。
祝いの鐘ではない。
処刑台から聖女が消えた、という知らせを隠すための鐘だった。
白火大聖堂の広間で、枢機卿バルテロは布告文を握り潰した。
金糸の白法衣。太い指輪。聖火炉の熱で赤くなった頬。
その赤みが、今は怒りに見える。
「エレナは聖女ではない」
バルテロは言った。
「異形に奪われたのではない。堕ちたのだ。自ら不浄の森へ走ったのだ」
上級司祭たちは頷いた。
誰も反論しない。
反論すれば、次に焼かれるのは自分だからだ。
司祭マティアスだけが、古い祈祷書を胸に抱えたまま動けずにいた。
煤のついた白い袖。話す前に喉を押さえる癖。
「枢機卿猊下。エレナは民の前で言いました。病人は穢れではない、と」
「だから堕ちた」
バルテロの返事は早かった。
「教義を乱す言葉を吐いた。聖火で焼かれてなお生きた。あれは奇跡ではない。異形のまやかしだ」
教義としては、そう言える。
白火教会は、病と魔物から民を守ってきた。清い火で汚れを払う。その歴史は全部が嘘ではない。
だが処刑広場で、民衆は見てしまった。
焼かれるはずの聖女が燃えずに立つ姿を。
火より先に、彼女の言葉を。
「堕ちた聖女エレナを再処刑する」
バルテロは新しい布告文を机に置いた。
「白い森へ向かう者も同罪とする。聖火騎士団を招集せよ。聖火炉を三倍に焚く」
三倍。
その言葉で、部屋の熱が一段上がった気がした。
マティアスは、喉を押さえた。
「病人も、ですか」
「異形へ向かう病人は、すでに魂を汚されている」
正しい言葉の形をしていた。
けれど中身は、人を焼く命令だった。
そのころ、白い森の下水路では、エレナが焦げた白衣の袖を握っていた。
シロは地下の菌糸から、ソルバニアの布告を聞いている。
「堕ちた聖女、だそうです」
エレナは静かに目を伏せた。
「でしょうね」
「驚かないんですか」
「あの方々は、間違いを認めるくらいなら、もう一度火を焚きます」
シロは嫌な沈黙をした。
ブラック企業でも見たことがある。
失敗した上司ほど、会議を増やす。現場が燃えているのに、もっと大きな声で方針を叫ぶ。
今回は、本当に燃やすらしい。
「逃げるだけでは駄目です」
エレナが言った。
「病人が来ます。私を信じる者も、疑う者も。焼かれない治療があると知ってしまった人たちが」
シロは白い森の外を見た。
まだ人影はない。
だが、来る。
熱の子どもを抱えた母親。祈っても眠れなかった老人。教会税を払っても薬をもらえなかった家族。
「旗を出しましょう」
エレナは焦げた袖を握った。
「焼く救済ではなく、焼かずに助ける森だと」
「旗、ですか」
シロは聞き返した。
正直に言えば、そこまで考えていなかった。
病人が来る。
寝台が必要。
薬と水と、できればパン。
田中の頭にあるのは、その程度だ。
前世のブラック企業で、トラブルが起きた時に考えたことと大差ない。
人員を増やす。
導線を分ける。
上司に怒られない報告書を作る。
それくらいしかない。
だがエレナは違った。
「布告文を先に出されました。なら、こちらも先に言葉を出します」
「言葉で止まりますか」
「止まりません。ですが、迷っている人の足がこちらへ向きます」
エレナは焦げた白衣の裾を裂き、細い布にした。
「堕ちた聖女ではなく、焼かれなかった聖女。異形の森ではなく、焼かずに助ける森。病人は穢れではなく、救護対象」
言葉が、次々に置かれていく。
シロは少し遅れて頷いた。
分かったふりだった。
広報とか、ブランディングとか、そういうものだろう。
前世の会議で聞いたことはある。
だが実感は薄い。
「いいと思います」
無難な返事をした。
エレナの目が静かに光った。
「では、主の御意として布告します」
「御意というほどでは」
「主は、救済の言葉を先に民へ届けよ、とお命じになりました」
命じていない。
シロはそう思った。
けれど、ここで否定すると話が止まる。
寝台も足りない。
薬も足りない。
追手も来る。
だから、黙った。
黙ると、部下は進む。
カトラスが膝をつく。
「白火教会の布告に対し、王の救護布告をもって応じる。御意」
モルデの影が壁へ沈む。
「噂の流路を作る。堕ちた、ではなく、焼かれなかった、で流す」
リゼットは板に書いた。
「信仰語彙の上書き試験」
「試験じゃないです」
シロは小さく言った。
誰も聞いていなかった。
策略。
謀略。
言葉の置き換え。
その全部を、エレナは祈るような顔で進めていく。
シロは分かったふりで頷きながら、内心では思っていた。
やっぱり会議は、できる人に任せた方がいい。




