第六席 ない物ねだり
何者かになる前に僕は戦国時代の茶の湯について学ばなければならない。なにせ現代の作法とかなり違っていたからだ。茶道部の活動として裏千家という流派を嗜んでいたけど、ところどころ微妙に作法やしきたりが異なっていた。大きな差異は薄茶の点て方だった。あまり泡立てないらしい。
懸命に覚える一方、宗匠からは現代の作法を忘れないほうがいいともアドバイスされた。いつか役に立つときが来ると推測しているらしい。半信半疑だったが言われたとおりにしようと思う。
宗匠や山上さんの指導でだいぶ慣れてきたなと思えたのは天正三年が終わって年が明けた四月の終わり頃だった。それまでは必死に覚えるしかなかった。何事も基本が大事だと特に山上さんは言ってくれた。僕もそれに従って愚直に繰り返した。
茶の湯の修行の合間に宗匠の仕事の手伝いをした。事務仕事である。文字はまだ覚えている途中だけど、数の計算はすぐに会得した。意外と戦国時代の経理は難しくない。むしろ単純化していて分かりやすかった。おそらくいつ何時攻めたり攻められたりしても良いようにした結果なのだろう。
「藤田さまは算勘の才がございますね」
仕事が早くて助かりますと宗匠は言ってくれた。まあ僕が凄いのではなく日本の義務教育と高等教育の賜物なのだけど。
さて。茶の湯と事務仕事の毎日を過ごしていたが、世間は大騒ぎになっていた。
また戦争が始まったらしい。それも松永さんの予想が的中して、織田信長と本願寺顕如との間で行なわれた。堺と近いところで勃発したようで信長の家臣の原田という武将が戦死したと聞く。信長も怪我を負ったとか重臣が病気になったとか様々な噂が飛び交っていた。
「なんか嫌ですね。人が大勢死ぬのは」
「人が死ぬのは当たり前だ。藤田殿の時代だってそうではないか?」
僕の部屋で山上さんと話していた。
「今でも戦争は行なわれているけど、それは海外の話で現代の日本は平和ですよ」
「小競り合いのいくさもないのか? なんとも奇妙な話だな」
「奇妙ですか?」
「私たちにとっていくさは日常だ。玉薬や兵糧が買う者がおらねば商売は成り立たぬ。宗匠の仕事を手伝っているのなら分かるだろう」
宗匠は貸し倉庫を営んでいた。需要があってかなりの利益を上げている。その中身には戦争の道具も含まれていた。
「山上さんは人が死ぬのは嫌ではないんですか?」
「嫌に決まっている。好むのは武家だけだ」
だけど利用しているじゃないですか――そう言おうとして気づく。
戦国時代は戦争で経済が成り立っている。だから僕が着ている服や食べているものはそれによって生み出されている。考えると恐ろしいのだけど、この時代に生きるだけで罪深いという現実に直面してしまう。
「私は商人だ。好まないとはいえ、いくさを糧に商売しなければならない。堺の者ならば尚更だ」
「⋯⋯つまり、僕の仕事が人の生死につながっているんですね」
数字を記すたびに人が死ぬ――言い過ぎに思えるけど、戦争が当たり前な国にしてみれば常識だった。
命が軽い、軽過ぎる。
「気に病んでも仕方あるまい⋯⋯それよりもだ、この紙束はどうにかならないのか?」
山上さんが指差したのは部屋の片隅に積まれている紙束――紙の山だ。
僕は「後で捨てます」と頭を下げる。住まわせてもらっているのに積んでしまって申し訳なかった。
「いくらなんでも妄執が過ぎる。それほど心を奪われしまったのか――平蜘蛛に」
そう。僕は平蜘蛛を見た感動を忘れられずに紙にその姿を描いていたのだ。この時代の紙は貴重なので書き損じたものを使っている。しかし山上さんに苦言を呈されるほど夢中になっていたのかもしれない。
「なかなか上手に描けているがな。絵師とまではいかないが、特徴を捉えている」
「昔から絵は得意なんですよ。数少ない特技です」
もちろん墨と筆なので、あの凄まじい迫力までは表現できない。さらに言えば絵が上手くなりたいわけでもない。あのときの感動を薄れさせないために描いていた。
「何百枚もあるが⋯⋯飽きないのか?」
「飽きませんね。それぐらい平蜘蛛は素晴らしい名物でした」
「飲まれるなと忠告したではないか」
「無理ですよ。元々名物に対して耐性がないのですから。まあ抗おうとも思いませんでしたが」
何が何でも欲しい気持ちは日に日に増していく。その欲を発散するために毎日絵を描いていたのだ。
「まるで懸想しているようだな⋯⋯燃やすときは火事にならぬよう気をつけるのだぞ」
「分かりました……それよりお時間はよろしいのですか?」
指摘すると「おお。もうそのような刻限か」と山上さんはそそくさと立つ。
宗匠に大事な客人がやってくるらしい。山上さんも応対するようだ。
一人っきりになった部屋でちょっとゆったりして、それから平蜘蛛を描いた紙を処分しようとする。その前に改めて絵を眺めてみる。
「うーん。やっぱり実物が欲しいな」
呟いても、ない物ねだりだった。
◆◇◆◇
実を言えば宗匠には口止めをされていた。
それはこれから起こる出来事である。つまりは未来だ。
茶道に関すること以外、宗匠は知りたくないと言ったのだ。
普通ならば未来を知りたいと願うだろう。
けれども、宗匠は一切を拒絶した。
未来を知ることが怖いのではないだろうけど、理由は不明だった。
それと同じように僕が未来から来たと知っている山上さんも知りたがらなかった。
こちらは興味がまるでないらしい。そんなことよりも茶の湯の創意工夫を考えるほうが重要なようだ。
まあ僕としても話して歴史が変わることは望んでいなかった。だからありがたい展開ではある。うっかり本能寺の変とか喋ったらどんな目に遭うだろうか。考えたくもない。
「ほんの少し拍子抜けしているけどね……さてと、こんな感じでいいか」
宗匠の屋敷の庭で紙を焼く準備をしていると「おや藤田殿。何をしておられるのですか?」と声をかけられた。
宗匠の娘のお吟さんである。僕より二才年下の女の子だ。
目が宗匠と似ていて穏やかだ。鼻筋も通っていてほとんどの人が美しいと言うだろう。
小豆色の服がとても似合っている。
「これはお吟さん。部屋に溜まっていた紙を焼いていたんです」
「描かれているのは……茶釜ですか? とてもお上手ですね」
手に取ってまじまじと見る――にこやかに褒められると照れてしまう。
「あはは。物欲が過ぎて描いてしまいました。本物が手に入るわけでもないのに、馬鹿なことをしたものです」
気恥ずかしさからひねくれたことを言うと「馬鹿なことだとは思いませんが」とやんわり否定するお吟さん。
「この茶釜はなんと申しますか?」
「古天明平蜘蛛と言います」
「絵から名物であると伝わりますね」
作者としては嬉しい一言だけど、僕の拙い絵から名物と分かるのは相当の目利きだと思う。
おそらく宗匠が教えているのだろう。素晴らしい感覚を持っているようだ。
「藤田殿は平蜘蛛が欲しいのですか?」
「ええまあ。寝ても覚めても平蜘蛛のことばかり考えてしまいます」
「まあずいぶんと強欲なのですね。まるで父のようです」
そうかなあ? 平蜘蛛を預かるのを断ったのを見ている僕からしてみれば無欲に思えるけど。
僕がついきょとんとしてしまったのを見たお吟さんは「父ほど欲深い方は知りません」と口元を押さえて笑った。
「屋敷や茶室を訪れる数寄者は数多くいますが……それでも父には勝てません」
「そういうものですか?」
「だからこそ父は自分なりの美を求めるのですね」
茶人のみならず芸術家は己の欲を表現するために生きている。
それが絵であったり侘び数寄であったり。
自分の魂を込められる触媒を探し求めている。
「父は今、己の美学を求めているところです。お会いになられている方はそれを創り出してくれるとおっしゃっていました」
「へえ。誰なんですか?」
「長次郎というお方らしいです」
皆川先生から聞いたことがある。
茶器の作り手だ――ああ、そうか。ようやく宗匠が未来を聞かない理由が分かった。
自分の美を体現できた喜びは直に味わいたいよな。
「おお。そこにおりましたか」
雪駄を履いた宗匠がこちらにやってきた。
お吟さんは一礼して去っていく。
「宗匠、お客さまはどうしましたか?」
「お帰りになりました。藤田さま、一緒に京へ参りましょう」
京は京都のはずだ。
僕は「どのような用事でしょうか?」と訊いた。
自分の中では行くことは決定していた。
「お見舞いをしたく存じます。藤田さまも同席してほしいのです」
「どなたのお見舞いですか?」
宗匠はにこりと微笑んだ。
「明智日向守さまでございます」




