第五席 何者かになれ
「物の価値が分かる者でなければ、見せたとて無価値となる。その点、千宗易殿と藤田殿は十二分に資格があるな」
魅入られてから体感で一時間かそれ以上の時間が経ったと感じられた。
だけどほんの数秒だったらしい。それでも僕を変えるのに充分過ぎた。
もう知らなかった頃には戻れない。
「⋯⋯素晴らしい茶釜です」
やっと言えたのはつまらない感想だ。
僕以外の人でも言えるし、何ならもっと気の利いたことを言える人もいる。
しかし『ただそこにある美』の感動は僕だけのものだった。今、この場において一番平蜘蛛に感じ入っているのは僕のはずだ。
「青臭い褒め言葉よ⋯⋯それがまたいい。名物を所有する楽しみの一つでもある。誇らしく思えるぞ」
松永さんはにやにや笑う。
すると宗匠が「実に有望でしょう?」と言い出した。
「茶の湯の未来は明るい。松永さま、間違いないでしょう?」
「ああ、そのとおりだ。くっくっく、藤田殿は貴殿にとっての平蜘蛛というわけか」
僕が平蜘蛛?
意味が分からない。
「今は分からずとも良い。それより本題に入ろうか」
「せっかくの申し出ですが、お断り申し上げます」
宗匠は手をついて頭を下げた。
松永さんは不思議そうに「なにゆえだ?」と首を傾げた。
「平蜘蛛を預かってもらいたい⋯⋯貴殿ならば容易い話だろう」
平蜘蛛を⋯⋯預かる!?
いったいどうして!?
「松永さまのおっしゃるとおり、本願寺さまとのいくさが始まるかもしれませぬ。陣中に持ちこむことができず、手入れも滞ることも分かりました」
「そのとおりだ。だから信頼のおける者に頼むのだ。わしにとってそれは貴殿だ」
「過分な評価、痛み入ります。しかしながら平蜘蛛は松永さまのもとでこそ輝くもの。わたくしが預かるに相応しくありません」
謙虚な考え方だ。もしも僕が同じ立場だったら一にもなく請け負っただろう。
こんなにも美しくて格好良くてスタイリッシュな茶道具は他にない。
「なかなか立派な意見だな。含むところがなければ尊敬を抱くところだ」
含むところ?
疑問を覚えたが口を挟む間もなく「というわけでお断り申し上げます」と宗匠は再び断った。
松永さんは「仕方がないな」とため息をついた。
「不肖の息子に譲るのも遺憾だ。折を見て愛でるといたそう」
「それがよろしいかと。茶釜が冷めましたので、仕舞わせていただきます」
宗匠が茶釜を持って立ち上がる。
無意識に「あ」と言ってしまった。
山上さんの危惧どおり、僕は飲まれていた。
「藤田殿は名物を持っているのか?」
宗匠がいなくなってすぐに、松永さんが僕に話しかけてきた。人見知りしない性質なのだろう。僕はやや緊張しつつ「いえ、持っておりません」と答えた。
「名物を買えるほどのお金も持っておりませんし」
「名物を金で買えると思っているとは。いやはや、呆れたことよ」
鼻を鳴らして馬鹿にされた。
普通なら怒ったり不機嫌になったりするだろう。でも今の僕は平蜘蛛に飲まれていた。僕も名物を所有したいと考えていた。
「教えてください。どうすれば名物を持てるのでしょうか?」
正座で頭を下げる――真の礼だ。
僕の所作を見て、松永さんは「ほう⋯⋯」と感心したような声を出した。
「洗練された礼だな。誰に習った?」
「皆川先生です」
「みながわ? 聞いたことがないな⋯⋯」
「それより、僕の質問に答えてくださりますか?」
催促する言い方は相手を不快にさせるけど、僕は一刻も早く聞きたかった。実践できるかは置いといても無性に知りたいのだ。
知ればあの平蜘蛛を手に入れられるかもしれないから。
「様々な方法がある。まずは力づくで奪うこと。武家の得意とするところだが⋯⋯貴殿はできなさそうだな」
確かにそうだった。
平蜘蛛は喉から手が出るほど欲しいけど、松永さんから奪おうとは思わなかった⋯⋯はずだ。自分の善性を信じれば。
「次に所有者の欲しいものを用意する。先ほど貴殿が言った金もそうだが、名物を手放してもいいと思うほどの欲を刺激するのだ」
これは真っ当な方法だ。
ならば平蜘蛛を手に入れるためには松永さんがより欲しいものを用意する⋯⋯かなり難しい。僕と同じかそれ以上に平蜘蛛への執着が強いと分かる。僕が平蜘蛛に魅入られているから分かるのだ。
「三つ目は己が何者かになることだ」
前の二つと比べて意味が分からない。
僕の気持ちを敏感に察した松永さんは「わしでたとえれば」と語り出す。
「大和国の大名であり天下三悪事を行なった者として名が高まっている。ほとんど悪名だがな。しかしそれゆえに名物が集まるのだ」
「どうしてですか? どう考えても悪人に名物を渡すなんてありえません」
「結論を急ぐな。何者かになるには力が必要だとは限らん」
僕はそもそも松永さんの言う『何者』がなんなのか分かっていない。
権力や財力を持っている人を指すのなら先ほどの方法になるんだろうけど。
「何者かになるのに必要なのはなんだ? 絶対的な権力か? 圧倒的な財力か? 世間に認められることか? 否!」
松永さんはそれまで貼り付けていた笑みを消した。
真顔のまま、己の信条を告げる。
「己の欲を叶えた者を指すのだ」
ごくりと唾を飲み込む。
「天下三悪事と言えば聞こえは悪いだろう。将軍を殺し主君を殺し大仏を焼いた。しかし全てはわしの欲を叶えるための些細な行動に過ぎん。結果としてわしの元に名物が舞い込んできた。わしが一個の人間として欲を叶えたからこそだ」
あまりの迫力に僕は何も言えない。
飲まれている。
平蜘蛛以上に、松永弾正という人間に――飲まれていた。
「欲は絶つものではなく克つものであると高僧は教えるが、わしに言わせればちゃんちゃらおかしい。欲は決して制御などできず調節などできず抑制などできない。耐えがたい衝動で起こる本能そのものだ。抑えがたい鬱屈で湧き出る煩悩そのものだ。淀みなく続く大河のように、際限なく溢れる大海のように、生きとし生ける者が抱える火薬である」
正気を失わせる激しい嵐のような言葉だった。
暴力的に僕の心を打ちのめして苛んだ。
しかしそれでも心の奥底で燃え滾る何かのおかげで最後まで聞けた。
だが思考は絶対零度かのように停止していた。
そして松永さんの信条を受け入れてしまった。
もしも善悪があるとすれば間違いなく悪だろう。
それでも魅入ってしまった――
「松永さま。わたくしの弟子をからかうのはおやめくださいませ」
穏やかでありながら薄氷を踏むようにぴしりと割った声。
宗匠が無表情のまま、平蜘蛛が入った箱を持っていた。
どっと汗が噴き出る。
呼吸も荒い。どれだけ呼吸が正常でなかったんだろうか。
「はあ、はあ、はあ……」
「ふふふ。見込みのある若人だったからな。許せ」
にやにやと笑い出す松永さん。
今までのやりとりはいたずらだったのだろうか。
いや、そう見せかけて本音だったはずだ。
そうに違いないと僕は信じた。
「平蜘蛛をお返しいたします。ご確認いただけますでしょうか」
「藤田殿、席を外してくれ」
「……はい」
ありがたい命令だった。もう一度見てしまったら、あんな言葉を聞かされてしまったら、僕は自分を抑えられる自信がない。
外に出ると冷たい空気を一気に吸い込む。
火照った身体に心地良かった。
僕は決意した。
宗匠に弟子入りして茶の湯を極めるだけじゃない。
絶対に名物を手に入れる。
それも僕が生涯愛してやまない大名物をだ。
そのためなら戦国時代を生き抜いてやる。
欲を叶えることで何者になれるのならなってやる。
そうだ。僕が時を超えてここにいるのはそのためなんだ。




