第四席 ただそこにある美
千宗易さん、いや弟子入りしたから山上さんと同じように宗匠と呼ぼう。宗匠から聞いた最近の情勢でようやく今の西暦が分かった。数ヶ月前、織田信長と武田勝頼が戦ったと知った。長篠の戦いだ。つまり天正三年は1575年でもうすぐ年が明ける時期のようだ。
本願寺も聞いたことがある――そりゃあ今も続いている宗派なのだから知っている。しかし戦国時代の戦うお坊さんぐらいにしか分かってなくて、宗匠に物凄い勢力だと教えられたときは驚いてしまった。だけどあの織田信長と張り合ったんだから当然かと思い直す。
一応、秋頃に仲直りして和睦とやらを結んだらしい。これで平和になってめでたしめでたしと僕なんかは思うのだけど、宗匠に茶を点てるよう頼んだ松永弾正さんはそう考えないらしい。いずれまた戦争が起こると見ていた。そして自分が参戦するとも予想しているようだ。
「松永さまは直々に堺へいらっしゃるとのこと。藤田さまはどうなさいますか?」
「どうなさるって⋯⋯」
「お会いになりますか、なりませんか?」
宗匠の客人だから僕なんかが会っても仕方がないと思う。
だけど宗匠は「茶の湯において松永さまは当世一流のお方です」と断言した。
「造詣を深めるためにお会いになるのも良いかと存じます」
「そこまでおっしゃるのなら、会ってみたいです」
伝説の茶人の弟子となったんだ。茶の湯の達人になりたいという欲は僕にもある。
宗匠はにこりと笑って、手はずを整えますと去っていく。
残された僕は山上さんと一緒に宗匠の屋敷の空き部屋を掃除した。ここが僕の部屋となる。
「藤田殿。私はあまりおすすめできませぬな」
「松永さんに会うことですか? それはどうしてですか?」
はたきで埃を落としながら「未来では伝わってないのか⋯⋯」と言いにくそうにする。
「天下三悪事を行なった大悪人だ。私も会ったことはあるが、あまり人格者とは思えなかった」
天下三悪事とは足利将軍の殺害、主君三好長慶への謀叛、そして東大寺の大仏を焼くという、考えるだけでも物騒で恐ろしい行ないらしい。
「詳しくないんですけど、戦国時代でもやってはいけないことなんですか?」
「武家にも道理がある。それを破れば周りが敵になり攻め滅ぼされるだろう」
「ならなんで、松永さんは生き残っているんですか?」
箒で畳を掃きながら訊ねると「私にも分からん⋯⋯と言いたいが」と実に嫌そうな顔をした。
「松永さまは多くの名物を持っている。それをエサに釣っておるのだ。織田の殿様はまさしくそれよ。付藻茄子を献上されて許してしまった」
付藻茄子⋯⋯皆川先生から聞いたことがある。唐物茄子茶入の中でも大名物と言えるらしい。珍しく興奮して話していたから記憶に残っていた。
「私は武家ではない。商人だ。誰が裏切って滅ぼされたのかなど、どうでもいい。しかしだ。名物はどのような由来があるのか、誰が所有したのかで価値が大きく変わる。単に美しいものであればいいわけではない」
「山上さんはその⋯⋯松永さんを認めてないのですか?」
「ありていに言えばな。あの方の平蜘蛛が最たる例だ」
平蜘蛛? これもどこかで聞いたような気がする。
「平蜘蛛は茶道具ですか? 茶器ですか?」
「茶釜だ。正式には古天明平蜘蛛という。皆が素晴らしいと称賛するが、私はたいして評価していない」
山上さんは「おそらく松永さまは平蜘蛛を持参することはないが」と前置きをした。
「まがいなりにも名物だ。飲まれないようにな」
「飲まれるって⋯⋯そんな大げさな」
「私は名物を数多見ている。これでも審美眼はあるほうだと自負している。しかし――」
山上さんは――はたきの先を僕に向けた。
まるで喉元に刀を突きつけられた気分だ。
「――いつだって心を奪われる」
「⋯⋯⋯⋯」
「そのたびに自制心をもって物欲を抑えているがな」
◆◇◆◇
松永さんが堺のはずれ、宗匠の茶室にやってきたのは三日後のことだった。
表で宗匠と一緒に待っていると馬のいななく声がして――数人の家臣を連れた松永さんが現れた。
六十歳ぐらいの老人。三白眼で深く隈が刻まれている。しかし皺はほとんどなく、目尻に少しだけあるだけだ。それが松永さんの渋みを増している。一見、悪人には思えなかった。事前知識があるせいか、どことなく悪そうなイメージを持ったけど、昔ヤンチャしていたおじいさんに感じられる。
「千宗易殿。無理を言ってすまなかった」
これまた低音で重厚な声。
宗匠は頭を下げ「いえ。松永さまのお頼みとあらば」と応じる。
「支度はできておりますゆえ、しばしお待ちを」
「ああ、少し待ってくれ。詫びではないが、今回の一席にはこちらを用いてもらいたい」
家臣の方が丁寧に箱を持っていた。
なんだろう?
よく見ると緊張しているような――
「平蜘蛛を持って参った」
山上さんが話していた平蜘蛛!?
叫びそうになる――口を押さえて必死に止めた。
すると松永さんが僕を訝しげに見て「そちらの者は?」と問う。
「わたくしの弟子で藤田次郎と申します。なかなかの数寄者でございますゆえ、平蜘蛛がこの場にあるのに驚いたのでしょう」
「ほう。年若いのに立派なものだ。あの山上宗二とかいう偏屈者よりマシに見えるな」
松永さんは「藤田とやら、よく覚えておくがいい」と鷹揚に笑った。
「物の由緒よりもただそこにある美は全てを超える」
山上さんの持論と異なる主張だった。
僕は何かを答えようとして――言えなかった。
僕自身、美というものを理解していないからだ。
「くっくっく。そう悩むな若人よ」
茶人は心を見透かすのだろうか。
近づいてきた松永さんは僕の肩をぽんっと叩いた。
「千宗易殿の弟子であるならば、いずれ理解できよう」
「わたくしもそう思います。それでは松永さま、平蜘蛛をお預かりいたします」
二人が歓談しながら茶室へと足を運ぶ。
家臣の方々も離れていく――汗がどっと噴き出る。
冬のはずなのに身体がかっかと熱い。
僕は何かされてしまったのだろうか?
茶会はつつがなく行なわれた。
その最中、僕は外の腰掛待合に座っていた。
客でもないし、じっとしていられなかったけど、待つしかなかった。
何を僕は待っているのだろうか?
宗匠が僕に松永さんと話させると言ったから待っているのか、それとも平蜘蛛を一目見たいから待っているのか。
そのとき茶室のほうから、からんころんと鈴の音が鳴った。
なんだろうと思いつつ引き寄せられるように、あるいは誘われるように、躙口の前に立つ。
戸に手をかけたとき、何故か心臓が高鳴るのを感じた。
感覚としか言えないのだけれど、開けてしまったら僕の何かが変わってしまう。
そんな予感がした。
「藤田さま。どうぞ中へ」
宗匠の声に導かれて中に入る。
今回は四畳半の茶室だ――
「あ、え、なに、が――」
変な声が聞こえる。
いや、僕が発した声だ。
それすら認識が遅れるほど――
僕の視線は一点にのみ集中していた。
黒とも緑とも思える深い鉄の色。
どっしりとした形は蜘蛛が這っているようだと誰がたとえたのか。まさしくそのとおりである。
持ってもいないのにずっしりとした質量を感じる。
触ってみたい。
いや、使ってみたい。
茶を点ててみたい。
あれが――古天明平蜘蛛。
「物の価値が分かるようだな」
得意げな松永さんの声。
その瞬間、僕の心に熱いものが生まれた。
これは憧憬ではなく羨望でもない。
嫉妬である。
平蜘蛛を持っているというだけで妬ましい。
ああ、欲しい。
何が何でも欲しい。
何をしても、何としても、欲しい。
とても松永さんが羨ましくなった。




