第三十二席 敗北感
俗に清洲会議と呼ばれる、信長の後継者と領地分配の話し合いが終わって数ヶ月後、僕は京の大徳寺を訪れた。
そこで住職の古渓宗陳さまと会うのだ。面識はないのだけれど、宗匠の紹介で特別に時間を作ってくれた。
寺内の一室で待っていると「待たせたかの」とふすまが開いた。
触ってみたくなるようなつるりとした頭。白が混じった口髭を伸ばしている。徳の高そうな高僧そのものの姿だ。
「古渓宗陳と申す。おぬしは藤田次郎殿じゃな」
「お初にお目にかかります」
「うむ。足を崩して良いぞ。別にとやかく言う者はおらん」
胡座になると「千宗易殿から聞いておる」とにこやかな笑顔で話を切り出される。
「なんでも禅の心を学びたいと。しかし出家するつもりはないじゃろ?」
「妻帯しておりますので⋯⋯良くないですか?」
「別に構わん。御仏の心は深く優しい。その程度でヘソは曲げんよ」
大笑いする古渓宗陳さまにひと安心する。
厳格な人ではないと宗匠から伺っていなかったが、それでも断れたらどうしようという気持ちがあった。
「それで、禅の心の何を知りたいのじゃ?」
「正直申し上げまして、禅宗自体をよく知らないのです。座禅を組むぐらいしか⋯⋯」
「まあ在家の者には宗派の違いなどよう分からんて。まずはそこから説明しようかの」
古渓宗陳さまは「禅宗は大きく分けて二つの教えがある」と指を二本立てた。
「一つは我が臨済宗。もう一つは曹洞宗じゃ」
「どう違うのですか?」
「ざっくばらんに言えば修行のやり方が違う。我が臨済宗は公案を用いるが曹洞宗は只管打坐⋯⋯ひたすら座禅を組む」
そういえば日本史で鎌倉仏教の違いを習ったような⋯⋯もう何年も前だから覚えていない。
「公案とはなんでしょうか?」
「悟りに至るまでの課題と言えよう。有名なのは隻手の声じゃな」
そう言って古渓宗陳さまは両手をぱあんと叩いた。
「このときの片手の音はなんじゃ?」
「片手の音⋯⋯分かりません」
「そうじゃな。片手の音など存在せん。しかし答えねばならぬときがあるじゃろ」
そんな難解な問題――公案を解くときが来るだろうか。
そう考えていると「おぬしの主君である羽柴は常人では測れぬ」と古渓宗陳さまは頭を掻く。
「なにせ前代未聞の大出世を成し遂げた男じゃ。無理解に苛まれるだろうよ」
「権力者の孤独⋯⋯そうおっしゃるのですか?」
「ちと違う。ま、わしもおぬしもかの者が分かるようになるには修行が必要じゃて」
「あなたほどの高僧でも分からないと?」
「分かるのはあの織田殿だけじゃな。天下人の苦しみなど⋯⋯」
知らんほうがいい――そう結んで古渓宗陳さまは黙ってしまった。
しばらく沈黙が続いてから「天下人にも種類があります」と僕は口を開いた。
「たとえば武芸の天下人。たとえば商家の天下人。羽柴さまが天下人でもこの世全ての天下人というわけではありません。隻手の声の声を聞けぬように」
「味のあることを言うものじゃ。それでおぬしは何も目指す? 何の頂きに立つつもりじゃ?」
「――数寄の天下を取りたく思います」
古渓宗陳さまは目を細めて「大きく出たな」と笑った。
「数寄の天下人、つまり茶聖を目指すのか。まだ誰もなっていないとされているのじゃが⋯⋯」
「そのためには禅宗を学ばなければと思いましてね」
「ふふ。禅宗を志す者でなければ学んでも意味がないじゃろ」
「なっ⋯⋯」
根底をひっくり返すようなことを言われて言葉が続かなかった。
けれども、古渓宗陳さまは不敵な笑いのまま言い放つ。
「学ぶのではない。味わうのじゃ」
「味わう⋯⋯」
「禅宗とは悟りに至るまでの修行に過ぎん。ならばこそ味わうべきじゃ。口に入れ咀嚼し嚥下して心を満たせ。さすればおぬしの茶の湯の課題は浮き彫りとなり、そうしてようやく公案のように解く足がかりになるじゃろ」
学ばなければ不真面目だと説教されると思っていた。
だけど茶の湯のように味わう⋯⋯盲点だった。
「古渓宗陳さま、ありがとうございます。今の金言、心に刻ませていただきます」
「うむ⋯⋯ところでおぬしがわしに会いに来た理由はなんじゃ? 千宗易殿の手紙によれば悩みがあるとだけ書いてあったが⋯⋯茶の湯の悩みではあるまい」
「あー、言う必要ありますよね?」
「あるじゃろ」
僕は正座に直して「とある方に負けました」と何のてらいもなく話した。
「まあ茶の湯に勝ち負けはありませんが、とある方の数寄に圧倒されたのです」
「ふむ。どのような茶人かの」
「正確に言えば茶人であり武士である方です」
僕は古渓宗陳さまの目を真っ直ぐ見た。
もう何もかもから目を逸らしたくなかった。
「その方の名は古田左介。あれほど才能を持った人と出会ったことはありません」
◆◇◆◇
「藤田殿は茶人として優れたお方だと、常々うわさされております。いやあ、拙者もあやかりたいですな」
実を言えば、古田左介のことは事前知識があった。
茶道部の外部指導員の皆川先生から教わっていたのだ。
先生曰く、千利休の『人真似をするな』という教えを忠実に守った茶人。
ゆえに独創的かつ唯一無二の茶器を創った。
僕もその作品を見たことがあるし、レプリカも扱ったことがある。
だから目の前にいる武士が古田左介であるのは一種の感動を覚えた。
僕は「僕も宗匠、千宗易殿から聞いております」と応じた。
「審美眼や美意識が白眉だと褒めておりました。流石ですね」
「うひひひ。そう褒められると嬉しくなりますな」
清洲会議が終わり、諸将たちが自分の領地に帰る頃だった。
城の一角で古田殿の茶を味わっていた。
作法は当然ながらお点前も淀みなく行なわれていて素晴らしかった。
特筆すべきは茶道具の扱いだ。
僕が秀吉に献上する予定だった青磁瓢箪茶入を、自前の茶道具を使って上手く目立たせていた。
茶入が瓢箪の形なので小口の茶釜を用いていた。それだけではない。湯を注ぐ柄杓が大口に使う用の大きなものだった。
「古田殿。どうして柄杓を――」
「ああ。そのほうが面白いと思いまして」
にこやかに微笑む古田殿を見て、この人は既に何者かになっていると思った。
彼の本質である『ひょうげの茶』の片鱗が見えていたのだ。
打ちひしがれる気分だった。まだ自分の茶を見つけられていないのが情けない。
「藤田殿は宗匠の娘婿と聞きます。それほど近しい方であるならば指導を受けやすいですな」
「宗匠は予定さえ合えば弟子に指導なさいます。そこは変わらないですよ」
「うひひひ、そうでしょうか――ああ、そうだ」
突然思いついたように古田殿が懐から取り出した――茶入の蓋だ。
青磁瓢箪茶入のものと似ているが、縁が欠けていた。
「それが何か?」
「この茶入にはこの蓋が似合うと思いましてな!」
古田殿が取り換えると――しっくりと合う。
欠けたところが茶入に面白味を加えていた。
青磁瓢箪茶入は完璧なものだと思っていた。しかしこの世に完璧なものなどあるのだろうか。このように欠けているからこそ、完璧よりも上回っている――
「おお! 思った通りでございますな!」
どこか卑屈さが滲み出るような喋り方だけど、これを見せつけられた今、僕は古田殿をかっこいいと思ってしまった。
数寄で負けてしまった――何という敗北感だろうか。
「……古田殿。この蓋を譲ってもらえないだろうか」
努めて冷静に申し出ると、古田殿は下卑た笑い方をした。
「うひひひ、そうですなあ……五百貫文でいかがですかな?」
この人、数寄者として一枚上手ではない。
人間としても一回り大きすぎる。
もちろん、勉強代として言い値で買った。




