14.次があります
14.次があります
「写真に写らない?」
ラグビー部のジェームズが、メアリの言葉に首を捻った。窓の外で降る雨の勢いは強いが、彼の聞き間違いではない。疑いを多分に含んだ彼の反応に、メアリの口調がさらに速くなった。
「そうなの、本当よ。アキラと一緒にいた魔法使いみたいな恰好の人。何枚も撮らせてくれたんだけど、どれにも写ってないの!どういう事?」
学校の廊下で大声でまくしたてられ、周囲の目が二人に集まる。ジェームズは居心地の悪さを感じ、そこから離れようと歩きながら答えた。
「僕が知る訳ないよ……。どの写真も、最初からこうなんじゃない?」
そう言って、彼は手にした数枚の写真を上下に軽く振って見せた。ぺらぺらと何度も音を立てて曲がる写真は、いずれも昨日撮られたものだ。校庭の風景を背景に撮られたそれ等は、どれも真ん中に穴が空いたような構図である。写真の中にいるべき人物がいないからだ。ぽっかりと空いた空間の隣に、日本からの留学生が写っている写真もいくつかある。
メアリも彼を追って歩きながら、これに反論した。
「撮りたいものを真ん中に据えたの、なのにいないの!」
「はいはい、そうだね。悪いけど、僕はその人を知らないよ。だから、『その人は確かにここにいました』なんて言えないね」
写真を束ね直し、ジェームズはメアリにそれを返す。メアリは不満を顔に湛えたまま、黙ってそれを受け取った。
「嘘じゃないの」
「分かってるよ。でも信じられないね。写真に写らない人間なんている訳……」
そこまで言って、ジェームズの足が止まった。ある場所に目を向けたまま、首を動かそうとしない。
「どうかした?」
メアリが尋ねながら彼の見る方向を見る。そこには、校内での伝達事項を張り出す掲示板があり、そのうちの一つが彼女の目を引き付けた。
それは校内外で見られる要注意人物の写真を並べたプリントで、その中で唯一手書きで顔が書かれたものがあった。黒い帽子と外套に身を包んだその容姿は、まぎれもなくメアリが先ほど言っていた人物である。イラストの下には、印字でこう書かれていた。
[写真に写らない為、手書きで記載]
注意書きを見た後、メアリは似顔絵を見てポツリと呟いた。
「本人よりバタ臭い、かな」
「今日は外に出んぞ」
開口一番主人の発した言葉に、ロジオンは目を丸くした。外では雨が容赦なくテントの生地を叩いており、ロジオンとしては外出するなどと言われたらどうするべきか悩んでいたので僥倖とも言えた。ガレージに入れてもらおうにも、流水に弱い吸血鬼がいるとなると移動が困難な為、二人はテントに居ざるを得ない状態であった。少し身を乗り出しただけで肩が触れるほどの距離で、ロジオンは尋ねる。
「おや、意外ですね。何かお考えでも?」
「意外なものか、よく考えてみろ」
不満を顔に浮かべる主人に、ロジオンは首を捻った。主人の持つ不満を察するため、ロジオンは城を出てから起こった出来事を思い返してみた。主人が一人になってからの出来事は、主人本人からすでに聞いている。
ロジオンと離れてからの主人はあきらの学校に出向き、教員に追い回されたあげく、リズによって教会に飛ばされた。その後牢屋越しにロジオン達と落ち合い、無事にテントに帰ってからは夜の散歩に出ていた。
良し悪しはともかくとして、どれもが城にこもったままでは体験できない出来事だ。頭を撃たれた事をひとまず置いておき、彼は尋ねた。
「何がご不満なんですか?」
「分からんのか。全く、鈍い奴だ」
心底呆れた顔をロジオンに向ける主人。見下した目を隠そうともしないその態度に、ロジオンは苛立ちを覚えたがこれを堪える。
「……ええ。ご主人様のお考えになる事など、ゾンビの私にはとてもとても」
「そうかそうか、ならば教えてやろう。いいか……」
主人は一拍の間を空け、こう言った。
「出会いがないだろ!」
ロジオンは今ほど悩んだ時間が惜しいと思った事はなかった。
「……あきら様は?」
「リズと部屋を探しているぞ。いんたぁねっと、とかいうものを使っているらしいが、私にはよく分からん」
「いやそうではなく。求婚までした相手を放っておいて、他の女性を求めるのですか?」
「まだ返事はもらっていない。それに、候補は多くてもよかろう。無論、彼女を蔑ろにはしないぞ」
筋が通っているかどうか怪しい事を誇らしげに言う主人。ロジオンはこれをあきらに言うべきか少し考えたが、黙っておく事にして主人の話を促した。
「他にあてでも?」
「それが無いから困っている。かといって、外に出ても出会うのは乱暴な連中ばかりだ。全く、皆私より若いだろうにカリカリしていて困る」
ロジオンはどうでもいい話としてここまで聞き流していたが、ふとある事に気づいた。
「失礼、ご主人様はおいくつでしたでしょうか?」
「は?確か三百……」
そこまで言って、主人は難しい顔をして首を捻った。やがて諦めたように呟く。
「……いくつだ?」
「知りませんよ。しかし、ずいぶん長生きですね」
「まあな。そう簡単には死なんぞ、人間じゃあるまいし」
ロジオンにとって、この返事は一つの確信に至るものだった。
主人の顔つきは、人間でいえば二十代の半ば程である。これまでに出くわした人物はそのほとんどが成人男性であり、一目では主人よりも年上に見えるのである。
にも関わらず、主人は彼等を年下として認識しているのだ。自分が吸血鬼だと忘れてはいるが、自身を人間だとは思っていないらしい。
「やはり、吸血鬼だからですかねぇ」
ロジオンは探りを入れるつもりで、わざと声を押さえず呟いた。主人はこの返答に目を細める。
「そんな訳はなかろう。お前は本当に無礼な奴だな」
聞き飽きたと言わんばかりに主人が眉をひそめる。ロジオンは失礼しました、と詫びを入れた後主人から目を逸らし、テントの向こうを見るようにその生地をじっと見つめた。スコールと呼ばれるその雨は、ホースから水を直接吹き付けるよりも激しい勢いで厚手のテント生地を叩き続けていた。けたたましい水の音は慣れれば気にならないが、激しく上下する生地の様子には流石に不安が煽られる。そんな中で、彼を落ち着かなくさせる疑問が一つ、改めてロジオンの頭の中で大きくなっていた。
「この人は一体自分を何だと思っているんだ?」
考えてみても、ロジオンには分からなかった。
「それよりロジオン、なぜか今日も眠たいぞ。なぜだ?」
「……夜更かしのせいですよ」
ガレージを改装して作られた部屋の中でも、雨が屋根を叩く音がうるさいほどに響いていた。ガレージを押しつぶそうとするかのように激しい雨で、日本の静かな雨に慣れているあきらにとっては、未だ慣れないものだった。窓の外を見ても、雨が空間を埋めていて見通しはとても悪い。
「今日は雨がひどいから、ネットがあってホント良かった」
窓を見ながら、魔女のリズがそう呟いた。インターネットをありがたがる魔女という図式にあきらは違和感を感じたが、感謝されて悪い気はしない。海外ドラマにでもありそうな光景だと考えると、可笑しみすら感じられた。
部屋の中ではもう一つ、えんえんと響いている音があった。それはあきらの使っているプリンタの音だ。すでに何十枚も印刷を終えているそのプリンタは、今もなおわずかに震えながら紙を吐き出し続けていた。印刷された紙はすでに整然と積まれており、厚さは三センチを超えている。
「これで終わりですか?」
あきらがリズに尋ねる。そうしながら彼女が目を落とした紙面には、リズの希望する条件をいくつか満たした物件の情報が記載されていた。パソコンの画面には、先ほど印刷された紙と同じ内容の物件紹介サイトが表示されている。
「んー、そうね……」
物足りない、とも言いかねない様子のリズに、あきらは不安を覚えた。持っている紙はほとんど使い果たしており、インクの残量を示すプリンタのランプも赤くなっている。
「……ん、オッケイ。ありがとね、刷ってくれて」
あきらは肩の荷が下りてほっ、と息をついた。
「いえ、魔法のお礼です」
教えてもらった魔法の事だと分かり、リズは紙束を持つ手を降ろし、あきらを見た。
「でも、本当に良かったの?あんなので」
リズにとっては、ごくごく些細な効果の魔法だ。もっと価値のあるものを譲りたかったのが本音である。
「今からでももっといい魔法を……」
「いえ、ああいうのが欲しかったんです。それにしても、人間にも魔法って使えるんですね」
「ああ、まあ元が同じだしね。使える連中が使えない連中から逃げちゃって、それが自然と住み分けになったってだけ。根本から違う生き物じゃないからね」
半ば自分に言い聞かせているかのように、リズは少し声を張って言った。魔女としてのこれまでをわずかばかり聞かされたあきらにとって、その行動は妙に不憫を誘った。
「それは分かりますよ。リズさん話しやすいし」
本心からあきらがそう言うと、リズはほっと肩の荷が下りたように息をついた。
「ありがと。よければ、教えてくれない?その魔法で、何をするか」
リズがあきらの顔を横から覗き込む。あきらはその視線から目を逸らした。
「……きっかけにしたいんです」
「きっかけ?」
尋ねるリズ。答えが返ってくるまで、雨の音が静寂を埋めた。
「これでやり直せるかもしれないんです。色んな事を」
「どうだロジオン、何か楽しい事はあるか?」
いきなり投げかけられた言葉に、ロジオンは嫌そうな顔をして主人を見た。暇を持て余してる主人がそう尋ねるのは、一度や二度ではない。ロジオンはというと、漂う湿気に苛立ちを募らせながら主人の外套のほつれを直している最中だったなので、手が止まるのが彼にとってはいい迷惑である。それでも、むやみに声を荒げないのは主従関係を抜きにしても彼の美徳と言える。
「……ご自分で考えましたか?」
「ああ、勿論だ」
「嘘ですね。眉間にしわの跡がありません」
「え?」
咄嗟に主人がそこに手を伸ばす。その反応の速さから、ロジオンはやはりかと思った。
「悩んでないじゃないですか」
「……ぬ、図ったな」
「騙そうとするからです。……まあ、案なら一つありますよ」
お、と声を上げ主人がロジオンに顔を近づけた。
「何だ、聞かせろ」
「近いですって、離れてください」
主人が顔を離すのを待った後、ロジオンはん、んと咳払いした。主人の興味を十分にひきつけたのを確認し、ゆっくりとこう言う。
「アキラ様の気を引く方法を考えるんです」
「ぬ、そうか。……しかし、勝手が分からん」
「ならばお教えしましょう。いいですか。男女の仲というのは、非常に多くの取引によって成立しています。取引とは対等でなければ成立しません。相手に条件を呑んでもらうには、こちらも相手の条件を呑む必要があります」
「うむ、つまり?」
「あきら様からご要望をお聞きするのです。そうすればあきら様もご主人様に好感を持ちますし、ひょっとしたら他のご結婚相手の候補も見つかるかもしれません」
「何だと?確かか?」
「ええ。私も昔は」
「よし、聞いてくる」
話の続きを切って腰を上げようとする主人の手を、ロジオンはすかさず掴んだ。
「やめてください、濡れますよ」
「男の子だ、問題ない」
「やんちゃの出来るお歳ですか!」
なおも立ち上がろうとする主人にロジオンは食い下がる。
「ええい離せ、なぜ止める?」
「あなた流水駄目でしょう!別に今すぐじゃなくていいんです!急いては事を仕損じますよ!」
「ん、そうか?」
主人が再び座り直し、ロジオンは安堵した。
「そうです。大体、女性から要望を聞くというのはそれ自体が困難な事なんです。馬鹿正直に聞けばデリカシーが無いと言われますし、かと言って聞かないでいると無神経だと言われます。迂闊な真似はできませんよ」
「……詳しいな」
「昔は結構もててたんです」
「昔話が長いとすぐ老けるぞ」
「これ以上は老いませんよ」
ロジオンは言うべき事を言い終え、繕いものに戻った。主人も話す事がなくなり、退屈そうにテントの入り口を手で軽く引き開け、外を見た。依然雨がやむ様子はない。
「これでは外に出られんな」
「出る気はないんじゃないんですか?」
「膝を伸ばしたいんだ。ここは狭すぎる」
主人の言いたい事はロジオンにもよく分かった。元々がリズの持ち物であるそのテントは、男二人が入るにはいささか狭すぎるのだ。曲げっぱなしの膝が痛むのは、生前も死後も変わらないらしい。ロジオンは膝を組み直し、主人の言葉に同意するようにううむ、と唸った。
「……雨、止みませんね」
「うむ。こうも続くと気分が沈むな。何か面白い話はないのか?」
「もう、とうの昔に語りつくしました。ネタ切れです」
「そう言うな。何かあるだろ?好き嫌いの話でもいい」
「……でしたら、少し。私、猫よりも犬が好きなんですが、ご存じですよね?」
ロジオンが話を始めるのを聞きつけ、主人は再び体をロジオンの方に向けた。
「うむ、聞いた覚えがある」
「生前私はビーグルを何頭も飼ってました。ビーグルっていうのは動くことしか頭にないような犬種なんですが、いつも何かをせがむような顔で見上げてくるんです。うっとおしいとは思いますが、なかなかどうして無碍にもできず……」
語るにつれてロジオンの片目に生気が戻っていく。縫いものをする手も次第に遅くなっていった。
「あ、長くなるならもういいぞ。私猫派だし」
「……そうですか」
話を潰され、ロジオンは再び口を閉じた。針を持つ手が、再び速くなる。
縫い合わせた外套から待ち針が抜かれ、束にしたそれらを持つ手がロジオンの襟元から服の下に入れる。腋の下、胸襟の裏側に針先を当て、彼はそれらを一気に刺し入れた。痛覚もなく生理現象も失われた体は、彼にとっては細かい道具をしまうのに便利なものだった。
手を引き抜いたロジオンが再び縫い針で裁縫を始めた時、テントの中が一際明るくなった。驚いた二人がテントの入口を見ると、リズの姿があった。赤い傘を差しており、膝を曲げて座った格好で片手でテントの入口をこじ開けている。
「何だいリズ、カードでもくれるの?」
主人の言うカードとはトランプの事だ。主人の期待するような顔に反して、彼女の表情は固い。
「生憎だけど、そんな用じゃないの。……あきらの事で相談なんだけど」
あきらと聞いて主人が目の色を変えた。
「狭いトコだが入ってくれ」
「狭いからこそ入らないの」
そう答えた後、リズはガレージに目を向けた。中では今、あきらが大学から出された課題を片付けようと机に向かっている最中だ。
「あの子のしたい事を聞いてきたの。協力して頂戴」
「無論だ。何をすればいい?」
「まずは話を聞きましょう」
意気込む主人をなだめながら、ロジオンは縫いかけの外套をたたんだ。
一通りリズの話を聞き終わった後、主人は首を傾げた。
「やり直し?」
「そ。やっぱり学校でうまくいってないみたいね。もっと学校で明るくなりたいって言ってた」
リズが我が事のように沈んだ顔でつぶやく。主人にとっても、もったいないと思えてならなかった。
「ですが、我々は部外者です。下手に干渉すれば、逆に迷惑になるかと」
ロジオンとしては、当事者に解決してほしかったのが本音だ。昨日会ったばかりの人間の私的な問題に関わる気はない。
「馬鹿だなぁロジオン、ならば上手に干渉するんだよ」
主人が訳知り顔でロジオンに呆れてみせる。その表情は露骨にロジオンを小馬鹿にしたもので、慣れているはずのロジオンにすら衝動的な苛立ちを抱かせた。
「……では、どのように?」
「それを聞いているんじゃないか」
当たり前の事を聞くなとばかりに答える主人。ようするに何も考えていないのが分かり、ロジオンは顔のひきつりをどうにかこらえようと顔面に力を込めた。
リズはそんなロジオンの様子には気付かず、視線を少し下げたまま思案を巡らせる。
「やっぱり私等が直接学校でどうこうするっていうのは、無しよね。あきら一人でも大丈夫なようにしたいんだけど、どうするのがいいのかしら」
ううむ、と唸るリズを見て、主人とロジオンは顔を見合わせた。
「……存外、簡単に解決できる気がします」
「奇遇だなロジオン、私もそう思う」
二人の言葉に、リズは顔を上げた。
「何かあるの?」
そう聞かれた吸血鬼とゾンビは、本気で理解していない様子の彼女に戸惑いと、呆れの混ざった視線を向けた。
「……リズ、君は魔女だろ?」
リズの目が険しいものになる。
「だから何?魔法で解決していい問題じゃないでしょ」
魔女としての自分を道具のように言われるのは、彼女にとって最大の侮辱だ。友人である主人にこう言われるなど、彼女にとっては心外であっただろう。
彼女の気をなだめるように、ロジオンが主人の言葉にこうつけ加えた。
「リズ様、あなたの言う魔法とは少し違います」
「何よ」
「もう少し童話を読んだ方がいいかと」
「僕、その人知らないんだよ。ホントにそんな人がいるの?」
ジェームズがメアリにぼやくが、彼女はそんな苦情はどこ吹く風で彼の先を歩いていた。
「だから連れていくんでしょうが。アキラの知り合いみたいだし、何か知ってるかも」
「だからって、いきなり尋ねていいのかなぁ?」
「知らない仲じゃないからいいの」
言い訳にもなっていないが、ジェームズは反論しなかった。この手のやり取りは、二人があきらのホームステイ先までに何度も行われたものだ。
スコールの降りしきる中で、傘を持つ手は重い。ばたばたという雨の音が大きく、二人の声は自然と大きくなっていた。
「大体、その人はあきらの何なのさ。確かあの子、こっちに知り合いいないんだろ?」
二人の知るあきらは人付き合いのうまい人間ではない。無愛想というよりも、人に慣れていないかのようなのである。彼女が話を振られて返事ができないでいるのを、同級生の二人は何度も見ていた。
ジェームズの問いに、メアリは思いついた言葉を言う。
「あれじゃない?外国人コンプレックス。彼女留学生だし、日本人はそういうの多いらしいよ」
「ああ、なるほど。……にしたって、もう慣れててもいい頃だと思う」
「まぁ、ね」
異なる人種に慣れている二人にとっては、馴染みがない問題だ。そして、どうしようもない問題でもある。
「で、本当にこっちでいいの?」
「それは大丈夫。ちゃんと調べてるから」
ジェームズはなぜ公表していないはずのアキラの住所を知っているのか疑問を持ったが、聞くのも野暮かと思い黙っておいた。
「この角を曲がって、突き当りを右に曲がればホームステイ先よ」
「あきら、眼鏡貸して」
「へ?」
あきらは顔を上げて後ろを振り返った。そこにはリズと、ロジオンとがいた。リズは上機嫌で笑顔をたたえているが、ロジオンの表情はやつれたものだった。
「あれ、主人さんは?」
あきらがロジオンに尋ねると、彼はついと窓の外に目を向けた。相変わらず雨は続いているが、心なしかその勢いは収まっているようである。テントの頂が窓の下で鎮座してるのも、すぐに見る事ができた。
「少々、問題のある体でして。雨が収まる頃には出ると思います」
「はあ……?」
理解できていない様子のあきらだったが、リズが構わずにあきらに近づく。
「ちょっとごめんねー」
ひょいと彼女は、あきらから眼鏡を取り上げた。急に視界がぼやけた彼女は、焦りと戸惑いから眼鏡を取り返そうと手を伸ばす。リズは眼鏡を大きく上へと持ち上げた。あきらが立ち上がって手を伸ばしても、長身のリズの手にある眼鏡には届いていない。
「返してくださいよ、何ですか?」
「おーほ、かわい。へいロジオン」
リズが手首だけで眼鏡をロジオンへ投げる。ロジオンはそれを片手で器用に受け溶けた。もう片方の手には、やすりや工作用の小さなのこぎりなどの工具が握られていた。彼の持つものを見て、あきらは目を疑った。
「ちょ、何ですかそれ?何する気ですか?」
「まあまあ、心配しないで。あなたは座っていなさいな」
そう言って、リズはあきらの両肩を掴んで無理やり座らせた。二人に対して後ろを向く格好になったあきらは訳が分からず、立とうとしても押さえつけられているせいでうまく動けない。
「り、リズさん?何する気ですか?」
「怖がらないの。あたしは魔女よ?あなたの願いをかなえてあげる」
「え……?」
戸惑うあきらの髪に、リズの手がすっと伸びた。
「あそこにアキラがいるの?」
アンナの住む家を指して、ジェームズが尋ねた。メアリは傘を畳みながら、そうそれ、と頷く。雨は二人が目的地に着く少し前に、すでに止んでいた。
「それにしても辺鄙なところにあるんだね。よく通えるもんだなぁ」
「確かに遠いけど、遅刻した事はないみたい。日本人って真面目よねー」
ガレージの持ち主であるアンナが留学生を毎年迎え入れているのは有名で、その学生たちをガレージに住ませているのもよく知られていた。
二人がアキラの住まうガレージへと近づいて行ったその時、ガレージから大きな声が上がった。
「おおぉ、すごいぞアキラ!きれいになってるー!」
すっとんきょうな声に、二人は思わず足を止めた。声量はもちろん、知らない男の声なのも二人の度肝を抜かせた。
「……アキラの知り合い?」
「まさか、あの人!?」
見当がついたメアリが、すぐさま駆け出した。件の、写真に写らない男の声だと思ったのである。
「ちょ、ちょっと!」
ジェームズが慌てて彼女を追う。芝を踏み越え、メアリはガレージの入口のドアへと十手をかけた。ジェームズが追い付くと同時に、その手を引く。
扉はすんなりと開き、部屋の様子が露わになった。整然とした部屋の中に一人、あきらがいる。
振り返ったあきらが、驚いた顔で二人を見た。
「え、ええ?」
そう戸惑うあきらの顔に、二人も驚かされた。彼女の様子は、普段とまるで違っていたからである。
頭の横で広がっていた髪は今、頭の後ろで丁寧に編まれていた。かけていた眼鏡も、普段のものと違い締まったデザインのものになっている。それ等が彼女に大人びた印象を与えていた。以前より顔に光が当たるようになった為、陰気な雰囲気がまるでなくなっている。
「おお、イメチェン?似合ってるじゃん」
「え、あの……あれ?」
メアリの反応に驚くあきらが、一人で部屋を見回す。それまでいたものが急にいなくなったように、彼女は何度もあちこちに視線を這わせていた。
「わ、驚いた。見違えたねぇ」
ジェームズの感嘆の声に、あきらがようやく自分の置かれた状況に気付いて二人を見た。突然の来客に目を白黒させて彼等を見る。
「あ、あれ、何で?」
「話をしに来たの。昨日の男の人の事を聞きたかったんだけど、それどころじゃないみたいね」
メアリがカメラを取り出し、すぐさまあきらにシャッターを切った。
「上々ね」
目の前の反応に、リズはにんまりと笑っていた。彼女の目の前で、あきらを同年代と思わしき学生二人が囲んでいる。好意的な反応を返す彼等に、あきらもまんざらでもなさそうである。
あきらの髪型を変えたのは、勿論リズだ。彼女はロジオンに言って彼女の眼鏡を加工させ、印象を変えたあきらを主人に見せた。果たして主人はリズの狙い通り、好意的な反応を返してくれた。そのおかげで、あきらは二人の反応を客観的な事実として受け止められたようであった。
「童話の魔法使いって、こういう事だったのね」
シンデレラを連想し、リズがロジオンにそう尋ねた。彼は黙って首を縦に振った。なかなかリズに説明を聞いてもらえず、言い方に苦労したせいかロジオンの表情に疲れがにじんでいた。
やり直したい、というあきらの言葉をリズは思い出した。沈んだ声で言っていたのが嘘のように、今の声は弾んでいた。表情を明るくして来客と接するあきらを見て、リズはほおを緩める。
「こういう事でしょ、あきら」
聞こえないように小さく呟いた。
「何だこの男、アキラに慣れ慣れしいぞ」
「静かに。バレるでしょ」
ジェームズに掴みかかろうとする主人をリズが制する。あと少しでも主人が手を伸ばせば、遮蔽の魔法の範囲の外に手が出てしまいアキラ達を驚かせてしまう。空中から手が生えたなどとあっては隠れる意味がなくなる上、無用なトラブルを招いてしまいかねない。あきらの不意をつくように魔法を展開したのは、瞬時に来客に気付いていた為だ。逃亡生活をしていた経験がなせる業である。
ロジオンが来客によって開かれたドアを指差し、リズに囁く。
「リズ様、今のうちに」
「おっけ、ゴー」
「ちょ、離せ」
足音を殺して先行するロジオンを、リズが主人の襟首を掴んで追った。遮蔽の魔法はリズを中心に展開しているため、彼女が動かなければ魔法の範囲も動かない。ロジオンがドアを支え、リズが主人を引きずったまま外へ出た。濡れた芝が分厚い底の靴に踏みしめられ、辺りに飛沫を散らす。
「それじゃあ、もうお暇しましょ」
「え、何でだ!?」
リズの提案に主人が驚く。彼女の提案に、ロジオンも頷いた。
「元々私たちは、偶然でここに来たんです。これ以上長居すれば、アキラ様にご迷惑をかけてしまいます」
「そうよ。それにあんた、アタシの家を探しに来たんでしょ」
リズが主人の顔を上から覗き込み、紙の束を見せつけた。びっしりと住宅情報の載ったそれらを彼の目の前でひらひらさせる。
「……分厚いな」
「分厚いの。それだけ大変なんだから、これ以上道草食えないの。お分かり?」
「よく分かった。大変だろうが、頑張ってほしい」
「分かってないでしょ。アンタも来るの」
「え、何で?」
豆鉄砲を食らったような顔になる主人。その顔を、リズが紙束で軽く叩いた。束ねられた紙が広がり、ばふ、と彼の顔の上で音を立てる。
「痛い」
「嘘こけ。ロジオン、テントは?」
リズがロジオンを振り返る。彼はすでにリズのバイクを引いてそこにいた。サイドカーにはリズの荷物が山となって積まれている。
「すでに畳んでバイクに積んでます」
「上等。行きましょ」
リズが主人の襟首から手を離してバイクに近づく。主人は襟元を直しながら、早足でロジオンへと詰め寄った。
「おいロジオン、お前、どっちの指示を聞いている」
「ご心配なく。あなたの僕ではあります」
「それ建前だろ?私でも分かるからな?ねぇ聞いてる?」
主人の問い詰めにロジオンが答えるより早く、バイクのエンジンが声を上げた。
「速く来なさい、まずはニュージャージーよ」
「私は嫌だぞ、アキラはどうするんだ?」
「もう少し時間を上げて頂戴。青春を謳歌するのも、素敵なレディになる条件よ」
たしなめるように言って、リズは主人を手招きした。それでも主人は動かない。
「アキラに悪い虫がついたらどうする!?」
「友達ができたみたいだし大丈夫よ。第一、アンタのじゃないし」
「え?」
主人が目を丸くする。その反応に、リズも目を丸くした。
「いや、アンタのじゃないし」
「……そう、なのか?」
「そうよ。それに、アンタそんなにあの子に執着してないでしょ。何にもあの子にしてあげてないし」
「そ、そんな事はないぞ!何もしてないって……」
「指輪は?花は?ディナーの誘いは?」
「え、えーと……」
次第に主人はしどろもどろになった。思いもしなかったであろう問いにうろたえる主人に、リズは呆れた顔になった。
「……唾つけたいなら、もうちょっと段取りを覚えてからになさい」
「……分かった」
主人は観念したようにうな垂れた。
すでにサイドカーには、ロジオンが荷物の山に隠れるようにして座っている。
「早く乗ってください、見つかっちゃいますよ」
「お、おお、そうか。すまん」
素直にリズの後ろに座る主人。沈んだ顔でメットを被る彼を見かねて、ロジオンが声をかけた。
「大丈夫ですよ、嫌われてはいません。またお会いする機会はあります」
「……うん」
「さ、気分を変えましょう。早く済ませて、城に帰りましょう」
空を遮る濃い雲がゆっくりと割れ、曙光が差す。ロジオンは手を伸ばし、主人のメットのバイザーを下げた。
リズのした事は、あきらの予想以上の効果を上げた。メアリとジェームズにあれこれ聞かれる内容に答えるうち、喋る事に抵抗を感じなくなったおかげだ。最初こそ見た目の変化の話だったが、次第に学校や私生活の事まで話題が広がっていった。日本にいた頃を思い出し、次第にあきらの声も弾む。
「それで、あなたに聞きたい事があるの」
メアリが本題に入る。
「何?」
「昨日あなたと一緒にいた人よ。魔法使いみたいな恰好した人、いたでしょ」
魔法使いと言われてあきらは最初、リズを思い浮かべた。彼女は確かに魔女だが、魔女狩りを経験しているらしい点からそれを自称するとは思えない。
メアリの言うのが恰好の事だと気付いた時、ようやく合点がいく。
「ああ、主人さんの事?」
「主人さん?誰の?」
「ロジオンって言う人の……、そういえば名前知らないや」
「誰のでもいいから紹介してよ。興味があるの」
メアリの食いつきの良さに怯みながらも、あきらは窓の外に目を向けた。主人達のいるであろうテントも、今はない。リズのバイクもなく、平坦な芝が広がっているだけだ。あきらが目を疑って外に出ると、やはり主人達がいた名残は見られなかった。
「あ、あれ?いない?」
「どうしたのさ?」
ジェームズがあきらを追ってドアから外を覗き、そこで気付く。
「あ、あれ!」
上空を指差す彼の指先を目で追い、あきらとメアリが気付く。
街路樹よりも高い位置で、バイクが走っているのだ。道路もないのに進むそれには、サイドカーに乗る者も合わせて三人が乗っていた。全員がヘルメットをかぶっているが、背格好に見覚えのあるあきらが声を上げる。
「皆さん、どこ行くんですか!?」
ハンドルを握る手の主が彼女に振り返り、バイザーを上げた。
「家探し!世話になったね、ありがとー!」
片手の指を立ててみせる彼女の後ろで、主人もバイザーを上げる。
「すまないアキラ、いつかまた!」
「え、何で謝るんですか?ねえ、ちょ、急すぎますよ!」
大きな声で呼びかけるも、バイクはみるみるあきらの視界で小さくなっていく。雲の割れ目に向かって進むその様子は、まるで絵画のようでもあった。
「魔法使いの出番は終わり!後は自分で頑張りなさい!」
一際大きな声でリズが叫ぶ。その意味に気付いた一瞬、あきらは言葉を失った。
彼女の後ろではジェームズが呆然とバイクを見上げ、メアリが何度もシャッターを切っていた。
あきらは我に返り、指を立てて遠ざかるバイクに向けた。そのまま円を描こうとして、その手が途中で止まる。
もはやバイクは肉眼では見えぬほど遠くにあった。どれだけ逆行させても、彼等が黙って去る事の意味を蔑ろにしてしまうからだ。
視界の両隅では濃い雲がそびえ、ごうごうと寒風が吹きすさぶ。だからか、呟く主人のその声は、ロジオンにしか聞こえなかった。
「リズばっかり呼ばれてた……」
彼が見ると、主人はメットのバイザーを下げたまま、リズやロジオンからそっぽを向く格好でうな垂れていた。いじけているのが分かり、ロジオンは主人の肩に手を乗せた。
「……まあ、次がありますよ」
ロジオンに気付いたのか、主人が彼を見る。
本来、従者に気安く触られる事など主従関係を持つ間柄ではあってはならない事だ。だが主人はロジオンの手を振り払わず、小さく首を振った。
「……うん」
二人のやり取りに気付かないまま、リズがバイクの速度を上げた。バランスを崩しかけたロジオンが慌ててサイドカーの車体に捕まり直す。
「そんじゃとばすよ!」
無神経とも取れるタイミングに、二人は文句の一つも言ってやりたくなった。
「事後承諾はしませんからね!」
ロジオンが落ちそうになった事を差して、声を張り上げる。
「もう何でもいいから早くしてくれ、私はもう帰りたい!帰って、ふて寝決め込んでやるー!」
やけを起こしてわめく主人のその声は、バイクの排気音と混ざり、厚い雲と雲との間で響いていった。
非常に長らくお待たせしました。
勝手ではありますが、この回で一旦彼等のお話はシメとさせていただきます。
理由は、コントと銘打って始めたシリーズにも関わらず、全然コントらしくないからです。読んでくださった方でしたら私の、キャラクターが活かせない構成の甘さが出てしまっているのが分かると思います。
読んでくださる方々の続きを待つ期待を背負って書くというのは、私にとっては初めての体験でした。個人的な事情で間を空けてしまい申し訳なく思う一方、温かい目で読んでくれるその気持ちに感謝しながら書く事ができてとてもうれしかったです。大きな励みになりました。
感想、ポイントをくださった方々には感謝してもし足りません。
ここまでお付き合いくださり、誠にありがとうございました。
旅立った彼等の後のお話は、いつかまた書きたいと思います。一応伏線らしいものを残しているので、それを解消しなければならないのです。それがいつかは分かりませんが、長い目でお待ちしていただければ幸いです。
ひょっとしたら、私が今後書く物語の中にひょっこり出てくるかもしれません。その時はにやりと笑って「久しぶり」と言ってくれると彼等が喜びます。多分ね。
では。