094話 魔導神書の女神
人間で例えるなら二十代前半。
整った容姿は、精緻な彫刻のように完璧でありながら、どこか非現実的な美しさを湛えている。
数多の時を超え、宇宙の理を知り尽くした者だけが持つ、知性と孤独を滲ませた微かな笑みが浮かんでいる。
膝まで届くほどの長く豊かな黒髪は、絹糸のように滑らかに背中を流れ落ちていた。
そして、その髪の下から覗く黒い瞳は、底知れぬ魔力を宿しているようだった。
彼女の纏う空気は「魔女」を連想させたが、くびれた細い腰、しなやかな身体の線は、成熟した女性の蠱惑的な魅力を醸し出している。
ライカは思わず悲鳴を上げた。
「だ、誰――!?」
女性は微笑んだ。
『落ち着きなさい。あなたを傷つけるつもりはないわ』
その声は、静かに心へ響くようだった。
ライカの悲鳴に反応して、アレフとシノが駆けつけた。
彼らの目の前で、光の渦から現れた女性は穏やかに佇んでいた。
しかし、その存在は“生者”ではなかった。
足は地に触れず、髪も衣も、どこか現実の法則から外れて揺らめいている。
アレフは咄嗟に身構えた。
「おまえは何者だ。どうやってここに入った!」
女性は小さく笑みを浮かべた。
『私は――グリモワール。あなた方がそう呼んでいる書の意識。知識の綴り手にして、記録の番人よ』
「……グリモワール、だと?」
ライカの胸に抱かれた魔導神書が、微かに共鳴している。
ページの端がふるえ、まるで“呼応”しているかのようだった。
『あなたが紡いだのは、古の魔法よ』
具現化したグリモワールは、穏やかな声で言った。
『おかげで、私はこうして“声”を持つことができた』
その答えに、アレフもシノも困惑の表情を見せる。
しかし、ライカだけは、彼女の言葉が偽りではないことを確信していた。
「いつも聞こえてくる声……。グリモワール……あなたがグリモワールなんだね」
嬉しさのあまり、ライカは彼女に抱きつこうとした。
しかし、ライカの身体はそのまま彼女をすり抜けてしまう。
『うふふ。無駄よ……これはただの精神体。実体ではないのだから……』
「そんなぁ……」
がっかりするライカに、グリモワールは言った。
『魔導工学の街“マージラル”に行きなさい。あそこなら、精神体を宿せる器がきっと見つかるわ』
「……本当!?」
ライカの表情が一変して、明るいものになる。
『けれど気をつけなさい。あなたがたが求める《嫉妬のダンジョン》があるのは――七つの大罪シリーズの中でも、危険な場所のひとつ』
グリモワールの言う通り、「A」ランクに指定されている《嫉妬のダンジョン》は辿り着くだけでも容易ではない場所にある。
「そんな……それでも行かなきゃいけないの? 嫉妬の迷宮に」
ライカは唇を噛みしめた。
「呪われた神器がそこにある限り、避けては通れない。“最強の力”を求める以上、俺は逃げねぇ」
アレフは、静かに拳を握り締めた。
沈黙が落ちる。
『では、私が案内するわ』
グリモワールが微笑む。
「案内?」
ライカが目を丸くする。
「でも……あなた、実体がないのでは?」
『ええ、触れることはできない。けれど――あなた方の知を導くことくらいはできるわ』
グリモワールが指先を掲げると、光の線が宙に描かれた。
それは複雑な地図のような模様を形作り、最後にひとつの地名を指し示す。
《帝国 北方 ルオンド山脈の上空 嫉妬の迷宮》
「まさか……バビロンの空中庭園かや!」
シノが息を呑む。
「……みたいだな」
アレフは低く呟く。
「だが、行くしかねえ。次の神器がそこにあるんなら」
その言葉に、グリモワールが一瞬微笑んだようにライカには見えた。
「心配するな。俺たちはもう、“呪い”ってやつの怖さを知ってる。だが、それでも前に進む。それが冒険者の生き方だ」
その瞬間、禁書庫の灯がふっと揺れた。
ページがざわめき、空気が震える。
グリモワールの輪郭が薄れていく。
『……どうやら、時間のようね』
彼女は穏やかに笑い、ライカの方を見つめる。
『もっと魔力の感覚を磨きなさい、ライカ。次の扉を開けた時、これまで以上に彼の力になれるはずよ』
光が、ライカの手の中のグリモワールへと吸い込まれていった。
具現体の姿は、ゆっくりと霧のように消えていく。
「また会える?」
そう問うライカに、彼女は静かに答えた。
『あなたが、求めれば――いつでも……』
そして、光は完全に消えた。
静寂が戻る。
アレフは深く息を吐き、呟いた。
「……禁書庫ってのは、いつもこうだな。静かなくせに、やけに重い」
ライカは胸のグリモワールを見つめながら微笑んだ。
「でも、彼女のおかげで道が開けたよね」
シノが小さく頷いた。
「うむ。禁忌の書が導く先が地獄でも、妾たちはこやつについて行くだけじゃ――」
アレフは立ち上がり、ニヤリと笑う。
「行くぞ。次の神器を手に入れる」
その瞳には、暗い炎が宿っていた。
禁書庫の扉が音を立てて閉まる。
残された本の森が、まるで静かに息をつくようにざわめいた。
――“嫉妬の迷宮”
そこに辿り着くまでに、困難な道のりが待ち受けていることを、まだ誰も知らなかった。
次回タイトル:095話 魔導工学の街マージラル




